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高田クリニックコラム

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カルテ⑯その1 甦れ!快速電車 -東武鉄道ダイヤ大改正1年を経て- 高田良久

高田クリニックコラム

 

2020.11.30

2006318日、東武鉄道では日光線・伊勢崎線のダイヤを大改正しました。
周知のこととは存じますが、改めてその概要を列記します。

1.JR新宿発東武日光・鬼怒川温泉行き直通特急新設、新栃木発着特急新設。

2.浅草-伊勢崎直通準急の廃止・浅草-新栃木直通準急の縮小と区間急行への改称。

3.南栗橋・久喜発着半蔵門線直通列車の増発。そして改正前の通勤準急を急行、区間準急を準急に改称。

4.2.3.に伴い太田-久喜、新栃木-南栗橋間の各駅停車新設

5.伊勢崎線太田-伊勢崎間、佐野線全線のワンマン化

6.日光線快速の縮小・区間快速化(浅草-東武動物公園間快速、以北各駅停車)

7.6.による栃木・新栃木-日光間の各駅停車縮小

とまとめることができるか、と思います。
その結果、埼玉県内には料金不要の各種速達列車が存在しても、栃木・群馬県内の速達列車は主として有料特急のみとなったのです。
一言で言えば「埼玉偏重、栃木・群馬切捨てダイヤ」と名付けられるかもしれません。

この1年利用してみて、皆様はどのようにお感じになられましたでしょうか。
以下、我が家に関わる人々の改正に対する感想をまとめながら、今回の改正の問題点と今後の展望を検討したいと思います。

≪遅いぞ東武鉄道≫

まず、栃木から北千住経由西日暮里まで通学する長男の感想。
「以前より不便になった」
「利用者に優しくないダイヤだ」
「速度も遅い」
8
10には教室にいなければならない長男です。
改正前栃木60819と選択できたものが改正後は0217と間が開いて時刻も早くなりました。
これは栃木614に新栃木発の特急が新設されたためです。
特急に乗れば65分で北千住に着きますが、毎日のことに¥1,100づつはかけられません。
第一、719に北千住に着いては些か早すぎます。

北千住が終点となる朝の『区間急行』は、南栗橋で6両を10両にするために5分ほど止まります。
輸送力増強には仕方のないこととはいえ、朝の忙しいときに困りモノです。
例えば、増結のない542の『区間急行』が栃木-北千住間を1時間25分で走るのに対し、長男のよく使う617の『区間急行』は1時間32分、途中で特急に抜かれる602に至っては1時間38分を要します。早起きは「3文の得」どころか、「6分の損」なのです。

1時間半電車が走る」とは、どういうことか、様々な列車の時間と距離の関係を見てみました。

先日仙台の日本糖尿病学会年次学術集会に行く際に調べた東北新幹線のダイヤでは改めて新幹線の偉大さを感じました。
東京-仙台351㌔を上野にも大宮にも止まらない『はやて』は1時間36 分で走るのです。時速に換算すると219 k/h
ちなみに、栃木-北千住間78.8㌔を1時間25分で走る東武の最速『区間急行』の時は55.6k/h1時間38分で走る最鈍足『区間急行』の時速は48.2 k/hになります。
もっともこの『区間急行』の「時速」には停車時間が含まれており、正確に言えば、「時速」ではなく「表定速度」です。

また、標準軌(軌間1435mm)で全線高架、直線の多い新幹線と、狭軌(この場合軌間1067mm)で踏切もあればカーブも多い東武鉄道の比較は鉄道のシステムが違いますからフェアではありません。
そこで、東武鉄道のような狭軌在来線の様々な列車が1時間半程度でどのくらいの距離を走るかを見てみました。

 

写真1.今はなき485系『はくたか』金沢行。2005年3月から『はくたか』は全て681・683系になった。

 

智頭急行経由で京都-鳥取・倉吉を結ぶ気動車特急『スーパーはくと』は、1時間半で京都-姫路間130.7㌔を走破します。
料金不要の『新快速』でさえ、京都-加古川間115㌔を1時間半で走ります。
首都圏では電車特急『スーパーあずさ』が新宿-甲府123.8㌔を1時間半、電車特急『スーパーひたち』は上野-日立149.1㌔を1時間半、料金不要の宇都宮線快速『ラビット』は上野-宇都宮105.9㌔を約1時間半です。
富山・和倉温泉-大阪を北陸線・湖西線経由で結ぶ電車特急『サンダーバード』は京都-福井148.1㌔、
あるいは富山-福井136.11時間半、などというのをみると、在来線の特急は1時間半で130140㌔を走る、といえそうです。

表定速度にすると90k/hほどになります。

 

写真2. 681系『はくたか』越後湯沢行。『サンダーバード』も同系の車両で運転される。

在来線でもちょっと特殊なのは越後湯沢-金沢を北越急行経由で結ぶ電車特急『はくたか』でしょう。
『はくたか』には直江津、魚津、富山、高岡しか止まらないタイプと十日町や糸魚川などにも止まるタイプがありますが、止まるタイプでさえ、越後湯沢-糸魚川間175.1㌔、あるいは富山-十日町間168.7㌔を1時間半程度で走っているのです。
この区間の表定速度は110 km/hをこえます。北越急行線内で160 km/hの高速運転(在来線最速)を行っているからです。
北越急行線は全線高架で踏切がなく、カーブもできるだけ緩く作られ、かつ『はくたか』には耐寒耐雪・気密構造を強化した専用編成が投入されているため、普通の在来線ではできない高速運転が可能なのです。

東武鉄道も民鉄最長の北千住-北越谷間19㌔の複々線区間を持ち、そこでは竹ノ塚辺を除けば踏切も有りませんから、条件は小田急よりいいはずです。
小田急のロマンスカーは、新宿-箱根湯本間88.6㌔に1時間20分前後かかります。
乗るとわかりますが、神奈川県の本厚木を過ぎるあたりまで実にゆっくりした歩みです。列車本数が多いのに追越できる駅が少ないから、特急といえども先がつまって速く走れないのでしょう。
現在小田急では、訴訟を起こされながらも複々線区間の伸長に頑張っています。
私鉄でも標準軌の近鉄特急は近鉄難波-宇治山田間138㌔、大阪のミナミから伊勢神宮の入り口までを1時間半で走破します。
狭軌の名鉄でも、豊橋-名鉄岐阜間99.8㌔を快速特急は1時間20分たらずで走ります。なお近鉄特急は料金がかかりますが、名鉄特急は特別車両に乗らない限り料金不要です。

列車の速さを比べる指標「表定速度」を用いて、様々な列車を比べてみました(表1)。

表1  様々な列車の表定速度

列車名 区間 発-着 表定速度 (km/h 所要時間(分) 距離(km)
はくたか2号 越後湯沢-金沢 102.5 153 261.4
サンダーバード10号 魚津-大阪 99.3 213 352.5
スーパーひたち15号 上野-原ノ町 92.3 188 289.1
スーパーあずさ11号 新宿-松本 90 150 225.1
JR東海特別快速 豊橋-大垣 89.5 78 116.4
近鉄ノンストップ 近鉄難波-宇治山田 86.1 97 139.2
名鉄快速特急 豊橋-名鉄岐阜 80.9 74 99.8
スーパーはくと9号 京都-鳥取 80.5 189 253.5
つくばエクスプレス快速 秋葉原-つくば 78 45 58.5
JR西日本新快速 長浜-姫路 77.8 159 206.1
常磐線特別快速 上野-土浦 75.9 55 69.6
特急スペーシア 浅草-東武日光 74.6 109 135.5
湘南新宿ライン 小山-新宿 68.6 68 77.7
スーパーはこね 新宿-箱根湯本 68.2 78 88.6
JR宇都宮線ラビット 上野-宇都宮 65.5 97 105.9
快速(改正前) 浅草-東武日光 65 125 135.5
区間急行22:32発 浅草-新栃木 53.3 100 88.9
区間快速 浅草-東武日光 51.5 158 135.5
区間急行5:59発 新栃木-北千住 48.6 101 81.8
仙石線快速 あおば通-石巻 47.1 64 50.2

注;表中の湘南新宿ラインの表定速度は小山-新宿間。宇都宮-逗子全線では62.8 km/h。

JRや東武の特急のように料金を要する列車と、快速などの料金不要の列車を分けてグラフにしたのが図1、図2です。

特急の場合、その表定速度は80 km/h~100 km/h、快速では60 km/h ~80 km/hが全国標準といえましょうか。
表定速度が高い列車は、停車駅も少ないですが、線路の状態がよく、高速運転が可能だから実現するものと考えられます。
また、常磐線の『特別快速』と「つくばエクスプレス」(TX)の『快速』、JR東海の『特別快速』と名鉄『快速特急』など、
競合する線区でスピードを競り合っていることにも気付きます。改正前の東武の快速は、最高速度90~100 km/hながら、区間によっては120 km/hで走るJR宇都宮線といい勝負でしたが、区間快速となって「土俵から下りた」形になってしまいました。

浅草-北千住間は急カーブが多く、しかも列車本数も多いので、スピードは出せません。
また、新栃木以北とりわけ新鹿沼を過ぎると日光に向かって勾配がきつくなるので、ここもスピードは出ません。
だから、スペーシアも快速も平地を走る栃木-北千住間に限って表定速度を計算するとそれぞれ84.4 km/h、75km/hと全国的に見ても立派なスピードですが、浅草から日光の全線で計算すると、74.6 km/h、65 km/hと分が悪くなります(図3)。
しかしながら『スーパーはくと』は中国山地を横断して走るわけだし、近鉄にも青山越えがあります。
『スーパーあずさ』も山国信州の松本を目指してどんどん登っていくわけですから、それらと比べ東武特急『スペーシア』はやはり遅い、というべきでしょう。
『区間急行』の遅さは、停車駅の多さ、途中駅での増結、特急待避などによる時間ロスが問題です。
『区間快速』の遅さは停車駅の多さ、すなわち遠距離客の特急への誘導を図るためとしか考えられない「東武動物公園以北各駅停車」としたからに他なりません。
それで本当に特急の乗客が増えたのでしょうか。確かなことは、春日部など埼玉県下から栃木の学校に通学する生徒さんの通学時間が20分余計にかかるようになったことだけではないかと思います。
そうした姑息で安易な特急誘導策には与しまい、と、私は意地でも苦感快速、いや区間快速や南栗橋乗り継ぎにこだわり、改正前の快速と比べれば20分以上余計にかかる所要時間にジリジリイライラしながら遅い東武に乗っています。

 

写真3.勾配区間を行くスペーシア。2006年5月 東武日光線 板荷-下小代

写真4.特急待避の上下区間快速とJR直通特急485系『きぬがわ5号』 2006年4月 東武日光線 新大平下

 

≪この苛立ちはどこから≫

 

もちろんスピードの遅さが苛立ちの原因に違いありません。

しかし、それだけではない不快感を今回の東武鉄道ダイヤ大改正には感じるのです。

理不尽さへの苛立ち、現在のわが国にじわじわと浸み込みつつある拝金主義、それがもたらす格差の問題、世の中を世知辛く慌しくする、

経済を唯一の価値とする風潮への違和感、今回のダイヤ改正に対する不快感はそうしたものと関係するように思うのです。

 

しばらく前、医療界で混合診療や民間医療保険の問題が取り沙汰されました。

医師会では『ジョンQ』というアメリカの医療保険の問題をえぐった映画を上映して啓発に努め、私も拝見して、

払った保険料の額だけで医療の内容が決まってしまう民間医療保険の非情さ過酷さを知りました。それに比べわが国の保険制度がいかに優れているか・・・。

保険証一枚で開業医でも大学病院でもどこでも受診でき、使われる薬や医療内容にも差はないからです。

アメリカ人から見たら夢のようでしょう。過度のフリーアクセスを問題視する考えもあり、

確かにその運用にはルールも必要か、とは思われますが、おそらくわが国の保険医療制度は制度としては優れたもののはずです。

 

わが国の伝統や国民性に根ざした互助の精神によって、医療を要する者が安心できるよう仕組まれていると思うのです。

しかし保険会社にとっては互助の精神など何の足しにもなりません。自社の「商品」医療保険が売れて利益が上がればいいからです。

そうした立場から見れば、国民が皆、格差のない公的医療保険に加入しているといった制度は障壁でしかないはずです。

利潤を追求しない公的医療保険があれば、利益を上げる「商品」、付加価値が高ければ価格も高い民間医療保険など、売れる道理はないからです。

そこで、「公的保険では治療の選択肢が広がらない」、「先進医療をもカバーするのは民間保険である」などの甘言を弄して公的保険を貶めようとしました。

もし、その戦略に乗ってアメリカ式に医療保険を民間中心としたらどうなったか・・・。

自社の医療保険を売りたいオリックスの宮内某の言うように「医療のために家を売る、という選択もありうる」状態、

つまり高額な保険料を払い続けうるか、高額な医療費を準備しうる人しかいい医療は受けえない状態になったでしょう。

たしかに、民間医療保険はあらゆる医療をまかなう「制度」を用意はします。しかしその制度を存分に利用できるのはお金のある一部の人だけです。

お金の有無による命の格差が生まれるのです。

しかし収益を上げることが目的で国民の健康を守ることは目的ではない民間保険会社という企業は、生じた格差で困る人が出ても知ったことではありません。

格差があろうが何だろうが、医療保険という商品で「自分が儲かる」ことだけが重要だからです。

しかも2007年4月28日の読売新聞が「自動車保険金不払い6社で294億円」と報道したように、「利益」を求める企業、民間医療保険会社も同様の体質を持つと考えるべきでしょう。

 

 

今進行している在宅支援診療所の制度も、24時間体制を用意するにはしますが、その利用にはコストがかかります。

医療はコンビニエンスストアのように、時給いくらで求人すれば働き手が集まるという業種ではありませんので、ある程度のコストをかけなければ供給側も機能しません。

となると、そのコストを負担しうる人しか利用できない、つまりは格差を生むものとなるのではないでしょうか。

 

 

団塊の世代の高齢化による医療費自然増などでいかに努力しても医療費は増えます。

国民各位が公平に良質な医療を受けられるようにするには、利用者負担はある程度に抑え、税金を投入して医療費を増やす必要があるはずです。

しかし政府・厚労省にそのつもりはありません。無駄なダムや道路や水門は環境破壊といわれようと惜しげもなくお金をつぎ込みながら、医療にはかけようとしないのです。

深刻な医師不足の現実があっても、政府・厚労省は、「医師が増えると医療費が増える」から、「医師不足の原因は偏在であり絶対数の不足ではない」と言い続けています。

なんでも薬害エイズ裁判で被告となった安部元副学長始め数万の物故医師が医籍に登録されたままだそうで、「医師は冥界にも偏在している」とは思ってもみませんでした。

 

 

霞ヶ関で胡坐をかいている役人が言い逃れの作文に汲々としているうちにも地域中核病院の医師は去り、自己負担の増加、安全性の低下、診療報酬削減、長時間労働、など医療費削減に伴う「ツケ」は国民にのしかかって地域医療は崩壊寸前に陥っています。

それでもわが国はWHOが世界最高と折り紙をつける医療水準を、対GDP比総医療費支出OECD加盟国平均以下、先進7ヶ国中最低という格段に低い医療費にもかかわらず何とか実現しています。

しかしそれがこのままで、あるいは、合理化という名のさらなる医療費削減を余儀なくされたら、本当に維持できるのかどうか、考えたいものです。

また厚労省が唐突にジェネリック医薬品の使用拡大策を打ち出したところ、ジェネリックメーカーは生産拡大用設備投資のために、薬価の引き上げを陳情したそうです。

現実を見ない机上の医療費削減策の実例でしょう。失笑を禁じえません。

たしかに特許切れの技術を使えば安い医薬品を製造できます。

しかしその安さのみを重用し、特許を取れるような独創的な医薬品を開発する先発メーカーをないがしろにすれば、わが国の創薬はどうなりましょうか。お祭りのテキヤのように、当座売れるものだけを作る体制だけが残り、価値あるものを生み出し長く作る生産体制は崩壊するでしょう。

近視眼的経済唯一主義の帰結です。国としてそれでよいのか、考えたいところです。

 

 

「よりよいサービスが欲しければ高い金を出せ」「価値より安さ」というむき出しの経済唯一主義一辺倒では落ち着きません。

そうした風潮に我々はジリジリイライラしているのではないでしょうか。

互助精神をもたぬ発想、手間暇かけていいものを求めようとしない発想、自分だけ当座よければよいという発想の何とも言えない「卑しさ」に不快感を抱いているのではないでしょうか。

 

 

東武鉄道の今回のダイヤ改正にイラつき、不快を感じるのも、その根っこに同様の「卑しさ」を感ずるから、といっては言い過ぎでしょうか。

「通勤通学者は各駅停車で十分だ。速く行きたいものは特急料金を払え」、その発想は、公的医療保険を縮小し民間医療保険にしようとする発想と同じではないでしょうか。

会社の努力で線路の状態を改善し、ダイヤを工夫して特急のスピードアップを図るのではなく、沿線の生活者の利便を損ね、犠牲を強いる形で、『快速』をスピードダウンさせ特急との差別化を図る、『区間快速』と『快速』の表定速度の違い、全国の他線区との比較は表1、図2の通りです。たしかに両者は大きく異なりました。

しかし、改正前の『快速』が担っていた対JR顧客誘導という性格、TX「つくばエクスプレス」対JR、名鉄「名古屋鉄道」対JRにみられた鉄道会社の乗客サービスに対する「気概」は捨てられ、ツケは利用者に回ったのです。流行の言葉で言えば会社の「品格」が疑われるといっても過言ではないでしょう。株主総会が「快速問題」で紛糾したそうですが当然です。沿線利用者もこの事態を黙認すべきではないでしょう。なぜなら、黙認すれば、結果としてその「卑しさ」を認めることになるからです。

 

 

ついでに言えば、北千住・浅草到着前に、「日光・鬼怒川へのお出かけはスペーシアで」、とアナウンスしますが、ここにも鉄道会社側の姿勢の曖昧さを感じます。

沿線住民に犠牲を強いてまで誘導を図った途中駅の特急利用をどう考えているのか、一方で途中駅利用客に強引な特急誘導を図りながら、もう一方で目的地としては日光鬼怒川しか考えていないとしたら、その特急誘導は、「何のためだ」と腹立たしくなります。

 

 

快速電車の復活は、沿線住民の利便の問題でもありますが、同時に沿線住民と鉄道会社の「品格」の問題でもあるのではないでしょうか。

≪東武離れ≫

 

北千住で東武を待っていて、常磐線ホームを通過する「特急ではない電車」があるのに気付いたのは最近のことです。

TXの快速に危機を感じたJRが打った乗客サービス『特別快速』に他なりません。

表1、図2に示すように、JR『特別快速』の表定速度はTXの快速に対して遜色はありません。高架の新線であるTXとは線路のシステムが違う中で、JRは相当に頑張っていると感じます。

 

 

岩波に「ある機関助手」という記録映画があります。昭和37年、まだ蒸気機関車時代の常磐線。東北から上ってきた急行『みちのく』は水戸で5分遅れ。

これを列車密度が高く追い越しのできない電車区間の始まる取手までに回復できるか、機関士と機関助手がC62型蒸気機関車を巧みに操って回復運転する模様を描いた作品です。

「取手通過、定時」

煤だらけの顔で微笑みあう機関士と機関助手の顔には、鉄道マンの誇り、プロの心意気を感じます。働くことの喜び、その尊さを感じさせる名作です。

労使紛争の起こる前までの国鉄にはそんな心意気、鉄道マンの「品格」があったと思います。

東海道線を行きかう電車特急『こだま』『つばめ』『富士』『はと』の運転手が、手を振る鉄道少年の私たちに151系(昭和34年、1959年、狭軌鉄道世界最高速度記録163 km/hを打ち立てた電車です)の高い運転台から白い手袋で返礼してくれたのもちょうど昭和37~38年頃でした。

最近お見えになりませんがKさんという元国鉄にお勤めだったという老患者さんから

「鉄道というのは本来儲かるんです。ただ、終戦後復員兵の働き口に大量の人員を国鉄に入れたからうまくいかなくなった」

ということを教えていただきました。お元気だといいのですが・・・。

北千住を通過する常磐線特別快速を見ながら、かつての国鉄が誇りを持って頑張っていたように、JRも頑張っているな、と思ったのです。

 

もちろん、スピードサービスが行き過ぎた影の部分、福知山線の悲惨な事故などを忘れるわけにはいきませんが・・・。

さて、私の妹は西武沿線の小平市に住んでいます。里帰りに際し、改正前は北千住に出て東武というのが通例でした。

「栃木には東武が便利」といういわば「常識」があり、都内の煩雑な乗り換えをしてでも東武鉄道にアクセスしたのです。

並行して走る西武池袋線と新宿線の中間あたりにある妹の家から、バスの便のある新宿線花小金井にでて高田馬場からJRそして東武。

乗換えと乗車時間、料金を一覧してみます。

 

 

西武新宿線     花小金井-高田馬場 急行20分          ¥ 260

JR山手線      高田馬場-日暮里

JR常磐線      日暮里-北千住   普通24分(乗り換え待ち含まず)¥ 210

東武線       北千住-栃木    快速64分 ¥860 特急 58分 ¥2,060

 

 

計          108分     ¥1,330    102分 ¥2,530

 

 

ところが今回のダイヤ改正後はJR湘南新宿ライン利用に変わりました。

 

 

西武池袋線     東久留米-池袋          準急20分 ¥ 260

湘南新宿ライン   池袋-小山        東北線内快速59分

両毛線       小山-栃木   (乗り換え待ち含まず)12分 ¥1,450

 

 

計          91分      ¥1,710

 

 

改正前は¥380かけて17分の時間短縮を図ろうとは思わなかったものです。

第一、実際のJR利用には小山駅で本数の少ない両毛線に乗り継ぐ、というリスクがあります。

だから余計に北千住で快速に乗れば確実に60数分で栃木に着く東武に信頼があったわけです。

ところが、ダイヤ改正により30分以上余計にかかる(元々17分余計にかかる+区間快速化で15分ほど余計にかかる)となると話は違ってきます。

東武を利用してJR並みの所要時間を達成しようとすると¥820余計にかかるという感覚になるのです。

これまで「JRは高くて不便」と思われたのが、「東武の方が高くて遅い」という感覚に変わるのです。

小山での両毛線乗換えのリスクを考慮しても、妹のJRへのシフトは変わらないようです。

 

この感覚の変化は、池袋や新宿を目指す東武沿線の栃木県民群馬県民共通のものではないでしょうか、南栗橋行きに乗ると、栗橋で多くの人が下車します。おそらくJRに乗り換えるためでしょう。

 

同じ現象は久喜でも起こっているのではないでしょうか。「速く安く上京できる」と感じられていた東武がこの改正によって「久喜・栗橋でJRに乗り換えたほうが便利」という感覚に変わったのだと思います。

私の上京も、以前はほとんどが北千住・浅草経由でした。地下鉄を利用しても¥1,000ちょっとで都心に出られるので便利でした。

ところが改正後は栗橋乗換えが増えてきました。先日も区間快速に乗ったら行楽シーズンで混んでいたため、栗橋でJRに乗り換えたところ着席できたのです。こんな経験をすると、妹ならずともJRに靡きます。

かつての快速なら栗橋には止まりませんから混んで座れなくても動物公園、春日部での幸運を祈りながら北千住まで乗らざるをえません。

しかし、栗橋に止まれば、JR宇都宮線、小山-大宮間は大体15分ヘッドで10両から15両編成の電車が走っていますので、6両の東武とは混雑度が違うはずと考えJRに乗り換えます。最近の乗り換えは自動改札機にカードをかざすだけですし、JRにはグリーン車休日割引というサービスもあります。久喜でも同様でしょう。

この6月の日本内科学会生涯教育講演会Bセッションで横浜を訪れた際は、始めからJRシフトでした。栃木から東武の普通電車で栗橋へ。

栗橋からJR宇都宮線普通上野行きで大宮。大宮からは高崎発の湘南新宿ライン特別快速を利用したのです。

大宮での接続3分。乗れば、赤羽、池袋、新宿、渋谷、大崎、横浜です。

宇都宮線からの湘南新宿ラインは恵比寿、西大井、新川崎にも止まりますが、高崎線からの特別快速は通過です。

 

2時間10分で講演会場パシフィコ横浜のJR最寄駅桜木町に着きました。

これは乗り換え待ちも含めた時間ですので、乗車時間は1時間55分ほどでしょう。料金不要で運賃は¥1,900。

改正前なら快速で浅草、ちょっと歩きますが都営浅草線浅草に行き京浜急行直通三崎口行き快速特急、あるいは羽田空港行きで品川、そこから快速特急で横浜というルートを取ったでしょう。

京急の快速特急は120 km/h運転をしますし、鶴見付近でJRと並ぶと抜くまで加速する楽しみもあります。

しかし地下鉄線内各駅停車のため乗車時間は40分ほどかかります。

半蔵門線直通で押上に行き、そこで都営浅草線に乗り換えると浅草よりは歩きませんが、北千住で待つか南栗橋乗り継ぎになりどうやっても乗り換えが億劫です。

帰りは東急経由のルートを試みました。

みなとみらいから東横線特急(湘南新宿ラインに対抗して設定。

以前は急行のみ。いずれも料金不要)で武蔵小杉、目黒線急行西高島平行に乗り換え白金高輪、そのまま都営三田線で三田に行き、浅草線に乗り換えれば浅草・押上へ、大手町まで行って千代田線に乗り換えれば北千住に、

あるいは南北線に乗り換えて溜池山王に行きそこで銀座線に乗り換えても浅草に着き東武にアクセスできます。

このルートでみなとみらい-北千住の乗車時間は62分。

北千住-栃木は区間快速でも急行でも80分ほど、特急60分ほどですから、全体の乗車時間は区間快速・急行利用で2時間20分ほど。特急利用でちょうど2時間ほど。

料金は区間快速・急行利用で¥1,500。特急利用だと¥2,700。

栗橋からJRだと¥1,900でしたから、やはり栃木-横浜間も東武でJR並みの乗車時間を実現するには特急利用が不可欠で、¥800ほど余計にかかります。

もし東武に料金不要の『快速』があれば、武蔵小杉も白金高輪も同一ホームの乗り換えで便のいい「東武-メトロ-東急ルート」は魅力です。

しかし現状では、乗り換えが少なく、多くの乗車時間をグリーン車で快適に過ごすこともできるJRを使って横浜を訪れることになるでしょう。

 

ちなみに1時間半ほどかかる栗橋-横浜の駅売りグリーン券は¥750で、北千住-栃木58分の特急券¥1,200に比べると割安感があります。

それにしても僅か9.1㌔の目黒線に『急行』を走らせる東急(東京急行電鉄)のサービス精神には頭が下がります。

それに引き換え東武ときたら94.5㌔の日光線から『快速』を廃し、各駅停車のみにしたのです。こうした経験も東武のイメージを悪くします。

さらに、先にも触れた「カードによる乗車方式の普及」、すなわち目的地まで乗車券を買うのではなく、

鉄道会社を跨いで利用できるパスモ、Suicaといったカードを使って電車に乗る習慣、かつ携帯電話で合理的な乗換えも検索できる状況となった現在、どの線を利用するか、鉄道会社側から言えば使ってもらえるか、は微妙に変わるでしょう。

だから料金不要速達列車とその停車駅は、鉄道会社が自社の電車を利用してもらう重要な要素だと思うのです。東急、名鉄、TX、JR、各社とも競合する線区でのサービス競争を意識したダイヤを組んでいます。北関東もかつてのように決して東武の独占市場ではないはずです。

例えば佐野などは高速バスの利用が増えていますし、もし、JR両毛線に桐生発、足利・佐野・栃木停車、小山で湘南新宿ラインの東北線内快速に連結する電車が走ったら、乗り換えなし、料金不要で新宿直通になるわけですから、沿線住民にとってはとても便利です。

しかし、東武にとっては特急『りょうもう』号の乗客さえ奪われかねない脅威でしょう。そうした状況の中で、東武鉄道が北関東の沿線利用者を自社のレールで東京まで運ぼうと思うのなら、運賃の安さとそれを際立たせるスピードの速さ、つまり改正前の日光線快速のような電車を運行しない限り、失地回復は望めないのではないでしょうか。

もっともダイヤを不便にし、利用客が離れたら廃線にするのが最終的な目標であれば、今回の改正は確かな一歩を刻んだことになると思います。

そう考えると、このたびの区間快速新設は、歴史に残る施策といえましょう。乗客の流れ、東武電車のイメージをすっかり変えてしまったわけですから。

ただ、それが賢策だったか、愚策だったか・・・。

≪直通特急と日光・鬼怒川観光≫

 

2007年のゴールデンウィークには、横浜からも東武-JR直通特急が走り好評だったと聞きます。

直通効果により当面の観光客増は図られたようですが、何時まで続くか。

鉄道会社は「日光・鬼怒川だから人は来るだろう」と思い、日光・鬼怒川は「直通特急ができたから人が来るだろう」と思う。

双方が貴方任せでは共倒れではないでしょうか。

いかに世界遺産とはいえ、日光・鬼怒川の集客力は箱根に比べるとお粗末としかいいようが無い、と私は思います。

たとえば観光施設ウエスタン村は再開のめどがたっていないそうですが、当然でしょう、例えば箱根のベゴニアガーデンのような、ちょっと気の効いた施設ではないですから・・・。

日光鬼怒川の施設は、何か泥臭い、見掛け倒しの気がしてなりません。自然は素晴らしいけれど、今度はそのアクセスがお粗末です。

渋滞で進まぬいろは坂、みなうんざりして再訪は望まないのではないでしょうか。

東京横浜で保険業を営む知人は、直通特急ができたのでお客さんの接待に鬼怒川を使ってみたそうですが、受け入れ側のセンスのなさ、不手際続きで、再訪は考えられない、とのご意見でした。

宿泊施設のお粗末さも日光鬼怒川の魅力のなさの一つでしょう。

ついでに言えば新宿-箱根湯本の特急券が¥870なのに、同程度の距離の北千住-栃木でも¥1,200というのはいかにも高すぎます。

JR利用が選択できる途中駅の一般乗客にとっては、特急料金の僅かな値下げでは「東武離れ」の流れを変えるのは難しいでしょう。

日光圏内はマイカー客を規制しない限り、鉄道利用者の増加は難しいのではないでしょうか。

たとえば今市と日光の間に大駐車場を設け、日光市内から湯元にいたる区間は公共交通のみ、あるいは県などの許可を受け高額な通行料を支払ったマイカーしか通行できない、

などの施策です。ユングフラウのように麓から直通の登山電車を設けるなど、さらに交通網を整備すれば鉄道を利用した国際観光地になりうるかもしれません。

≪今後の課題≫ 東武鉄道は、少子化による乗客減、日暮里-舎人間の新交通開業により、バスで竹ノ塚や西新井に出て東武を利用した乗客が新交通利用に切り替わるための乗客減など、乗客減に関わるいくつもの問題を抱えています。冒頭で2006.3.18の改正を「埼玉偏重、栃木・群馬切捨てダイヤ」といいましたが、その結果群馬栃木の沿線住民が「東武離れ」をおこしてはトリプルパンチでしょう。日光や鬼怒川の乗降客は表2に示した通り今のところたかだか3,000人程度です。やはり、栃木市や鹿沼市など沿線中小都市の堅実な乗客の信頼を繋ぐことができなければ乗客減はさらに進むのではないでしょうか。本来堅実なはずの乗客までが他社路線に移るとなると、鉄道事業はさらに大きな危機に直面するのではないでしょうか。だから2006.3.18改正で切り捨てられた生活者、とりわけ栃木・群馬の生活者の利便を考え直し、この地区の乗客を繋ぎとめる工夫をすべきだと思うのです。解決すべき最大の問題は、見てきたように「料金不要列車の遅さ」であります。以下、料金不要速達列車と、車両・設備の問題をわけて考えていきたいと思います。

 

1.料金不要速達列車

前述のように、改正前の日光線快速栃木-北千住間の表定速度は、湘南新宿ライン小山-新宿、宇都宮線快速『ラビット』より速く(表1、図2、図3)、沿線の乗客にとって東武の大きな魅力でした。

だから、沿線住民の生活路線としての機能と魅力を再獲得する料金不要速達列車の復活は不可欠でしょう。

ただし、前と同じに復活するのではなく、停車駅の見直しによる特急との機能分化は図る必要があるでしょう。

表2は、東武鉄道主要駅の乗降客数です。全線で最も乗降客が多かったのは東上線池袋の519,972人、最も少なかったのは佐野線田島の110人でした。

急行が止まる西新井より各駅しか止まらない竹ノ塚の乗降客の方が多い、など面白い事実も認めました。

また、当然ながら東京を離れるに従って乗降客は減ります。これらを参考に、沿線住民がより東武鉄道を利用しようと思うような料金不要速達列車を考えてみました。

 

 

・新しい日光線快速

その機能は、沿線通勤通学客の東京へのスピーディーなアクセスと、沿線観光における特急の補完でしょう。停車駅として、以下はいかがでしょうか。

浅草-北千住-新越谷-杉戸高野台・幸手-板倉東洋大前-新大平下・栃木-新鹿沼・以北各駅

JRとの乗り継ぎ客の利便となる栗橋は通過です。乗降客が多いためと、接続するJR武蔵野線沿線の行楽客を誘導しうる可能性に期待して新越谷には停車します。

事実臨時電車『尾瀬夜行』は、北千住、新越谷、春日部と停車して会津方面に向かっています。

 

表2  東武主要駅 乗降者数  平成18年調べ  東武鉄道ホームページより

 

駅名 乗降客数 駅名 乗降客数 駅名 乗降客数
浅草    58,781 久喜  45,326 杉戸高野台  12,019
北千住   437,498 加須  15,008 幸手  15,000
西新井    52,504 羽生  14,034 栗橋  11,060
草加    78,724 館林  10,175 板倉東洋大前   4,256
新越谷   122,785 足利市   7,509 新大平下   2,487
越谷    45,004 太田   9,799 栃木  11,451
せんげん台    61,641 伊勢崎   5,333 新栃木   3,875
春日部    68,701 佐野   2,989 新鹿沼   3,976
東武動物公園    32,870 新桐生   2,159 下今市   2,686
        東武日光   3,292
        壬生   2,658
        おもちゃのまち   2,386
        東武宇都宮  11,287
        鬼怒川温泉   3,318

 

春日部、東武動物公園通過を心配される向きも有ろうか、と思われますが、JR東海道線の湘南ライナーや通勤快速は「横浜通過」です。

栃木・群馬から東京を目指す生活者にとって、混雑を招くだけの春日部や動物公園に止まるメリットはありません。

また、「ボックスシートで酒を飲んでいるやつが乗っているから快速はいらない」などの議論も有るようですが、そう思うのは、春日部、動物公園など、素面で乗る場合しか想定できない区間の乗客でしょうから、その連中と区別するためにも両駅の通過には意味があります。さらに、両駅には特急が止まります。

北千住・浅草までお急ぎの方は、「¥300か¥500の料金ですから、どうぞ特急をご利用下さい」ではないでしょうか。

40㌔程度の距離、急行でも30分程度の所要時間をさらに短縮したいという方には個人負担を求めていいでしょう。

新越谷、杉戸高野台、板倉東洋大前(「板東」)、新大平下でより停車駅の多い列車と接続させることができますから、多くの人がこの速達列車の利便を享受できるはずです。

たとえば、下りの場合、越谷で快速を待避する準急なり急行なりに乗ってくれば、一つ手前の新越谷で快速に乗り継げる。杉戸高野台・新大平下では、隣のホームに南栗橋行きなり新鹿沼行きなりが待っていて通過駅利用客への利便を図る、などです。

上りの場合は新鹿沼-栃木間の通過駅、および宇都宮線の乗客は栃木で、静和・藤岡の乗客は「板東」で、柳生、新古河、栗橋、南栗橋の方は幸手でいずれも同一ホームでの乗り換えとなりましょう。

この快速列車、下りの場合、春日部で先行する特急スペーシアを追い越し、高野台、「板東」などで抜き返されるダイヤにすると、話題沸騰間違いなしです。

現在南栗橋-新栃木間の各駅停車を南栗橋-新鹿沼間に改変することで新鹿沼以北各駅となる快速との連携が取れると思います。

また、宇都宮線ローカルを一部南栗橋まで延長するのも栃木-南栗橋間の各駅停車対策かもしれません。

 

写真5.準急浅草行を追い越す快速浅草行 2006年2月 東武日光線 板倉東洋大前

 

・走れ!、快速急行 伊勢崎線関連・朝夕の速達列車

 

 

伊勢崎線には、太田-足利市-館林-羽生-加須-久喜-新越谷-北千住と止まる速達列車を想定できます。

久喜はJRとの接続駅ですが、ターミナル化しており停車したほうが通過駅乗客、あるいは、JRからの乗り換え客の便宜さえ図れると思います。

ただ、動物公園-北千住間のダイヤ上のキャパシティは考える必要があると思います。

日光線の特急・快速、伊勢崎線の特急に加え、さらに伊勢崎線の速達列車を入れる余裕があるかどうか。

なければ、久喜あるいは東武動物公園まで速達し、動物公園からは現在の急行と同じ駅に止まる列車が次善の策でしょう。次に述べる『快速急行』の発想です。

北千住-東武動物公園間は、改正前も快速と準急(現在の急行)で7分程度の差しかありません。動物公園以北が問題なのです。

そこで、新栃木あるいは新鹿沼発、改正前の『快速』と同じ栃木、新大平下、「板東」、動物公園に停車し、動物公園からは春日部、せんげん台、越谷、新越谷、草加、西新井、北千住、曳舟と現在の『急行』と同じ駅に停まる『快速急行』はいかがでしょう。動物公園-北千住間のダイヤへの負担をなくすことができます。

可能なら通過線のある越谷、草加は通過でいいかもしれません。

『快速急行』があれば、準急、急行、区間急行の所要時間を増やしてしまう早朝の特急は廃止してもいいように思います。

また、『新しい日光線快速』は幸手、杉戸高野台停車でしたが、朝夕の通勤時間帯は南栗橋発の『急行』をご利用いただき『快速急行』は通過でお許し願いたいです。

 

写真6: 1800系通勤車  2006年3月改正前 東武佐野線 渡良瀬川橋梁

 

伊勢崎線から4両、日光線から4(6)両できた『快速急行』が動物公園で連結して8(10)両となり北千住を目指すのもいかがでしょう。

車両は、佐野線ワンマン化で小泉線に回った1800系通勤車が小泉線もワンマン化されると余剰になるとのことで、

これを各車2ドア化して乗降の便を増し、地下鉄乗り入れを考えて正面貫通化し、内装ももうちょっと良くする、などの改造をしたらいいと思います。

東海型153系が東海道線の通勤輸送をしていたこともありますから、東武でも朝に1、2本、夕に2、3本、この手の乗降にやや不便な電車があっても大丈夫でしょう。

上り『快速急行』の終着を北千住にするか、半蔵門線に乗り入れるか、あるいは浅草行きにするか、

また南栗橋での停車・増結の有無、越谷・草加を停車か通過か、などは車両とダイヤの両方から検討が必要でしょう。

 

 

「6:30台に栃木を発車し、7:40台に北千住に到着する電車があると非常に便利」

とは毎日東武で通う長男の意見です。

夕方から夜にかけて、下りにもこの手の快速急行が2、3本あるとさらに便利でしょう。

栃木6:14発の特急の新設は画期的ではありました。しかし、通常の料金を要する特急では生活者にとって意味は有りません。

毎日毎日通常の特急券など買えないからです。改善方法としては、特急車両を使用するJRのライナーのように、着席券、ライナー券などとして料金を抑える方法とフレックスパルのような特急専用定期券の発売がありましょう。

細かいことですが、現在の「区間急行」を『準急』、「準急」を『区間急行』に改称した方がいいと思います。沿線住民はやはり『準急』の呼称に親しんでいると思います。

 

 

2.車両・設備について

 

6050系

現在快速・区間快速に使われている車両です。そろそろ更新の時期でしょうか。

クロスシート、トイレつきの電車は、東武鉄道の様な距離の長い鉄道には不可欠です。

JR宇都宮線の普通列車はほとんどがロングシートの通勤車ですが、グリーン車は進行方向向きの座席です。

それが乗客サービスだからでしょう。たしかに落着きが違います。京浜急行でさえ、品川発着の快速特急用にクロスシート車を保有しています。

より長い路線を持つ東武が、特急車と通勤車の2種類のみでは乗客サービスの低下でしょう。

逆に言えば、シートでJRの料金不要列車との差別化を図ることができると思います。

また、小田急は千代田線直通の特急を走らせるようですが、東武も半蔵門線直通列車の一部に行楽を意識した列車を設定し、

それに気のきいたシートでトイレつきの車両を導入すれば、地下鉄線内で東武沿線の観光需要を掘り起こす「走る広告塔」にもなるのではないでしょうか。

西新井駅の改良

 

現在、北千住-草加間に急行追い越し設備がなく、ダイヤ編成上ネックになっているのではないでしょうか。

草加から梅島までを連続立体交差にすれば、竹ノ塚の事故のあった踏切も解消し西新井駅も改良されるでしょう。

しかし西新井駅の竹ノ塚よりには道路橋があり困難かもしれません。

西武が行ったように、道路と線路の上下を入れ替える大工事も検討課題かもしれませんが、総合的に考えてどちらがいいか。

とりあえず、道路をそのままにして西新井の改良を考えるなら、大師線の発着ホームを地下化し、捻出したスペースを利用して、急行の追い越し線を設置する方法はいかがでしょうか。

急カーブ改良

 

日光線栗橋周辺から藤岡の北までにはかなりの急カーブがあります。

これらを改良することができれば、もう少しスピードアップするのではないでしょうか。

 

 

3.おわりに

 

朝夕の東北新幹線は小山や宇都宮から東京に通勤通学する人達で混雑します。

東京の住宅事情を考えれば新幹線通勤通学の方がいいとの判断からでしょう。

那須の別荘地に定住する人も増えているとか・・・。列車のスピードが人の住み方に影響した端的な例です。

鉄道は、沿線住民の生活を乗せています。

東京から1時間圏といえば、JR東海道線各駅停車で平塚、快速なら国府津、横須賀線だと逗子になります。

東京-横浜間は乗れば25分ほどですが、横浜駅まで出てくるのに30分以上かかればやはり1時間圏になります。

しかし、その辺に多くの住宅地があり、東京に通勤する人が多く住んでいるのは周知の通りです。

1907年(明治40年)、内務省地方局有志によって、『田園都市』と題する本が出版され、英国ならびに欧州大陸諸国における田園都市建設の最初の動きを詳細に分析、紹介するとともに、わが国の都市づくり、農村づくりの方向についても多くの分析と提案がなされました。

田園都市の提唱者エベネザー・ハワード(1850-1928)の基本理念は「都市と農村の結婚」。

「都市生活と農村生活の二者択一があるのではなく、実際は、第三の選択-すなわちきわめて精力的で活動的な都市生活のあらゆる面と、農村の全ての美しさと楽しさが完全に融合した-が存在するのである」

とその著書で述べているそうです。

 

 

東急に田園都市線という線があります。東武伊勢崎線が半蔵門線を介して乗り入れしている渋谷から先、中央林間までの線です。

かつては大井町-二子玉川も田園都市線に含まれていましたが、新玉川線の開通で渋谷からが主のルートとなり、大井町-二子玉川は大井町線に分離されました。

田園都市線が「二子玉川線」でも「長津田線」でもなく、「田園都市線」と名づけられたことには、あるいは明治の終わりごろに提唱された田園都市garden cityの概念が関係するのかもしれません。

しかし、現在あの線の沿線から田園は消え、都市に侵食されてしまったでしょう。

むしろ東武沿線、とりわけ越谷以北にこそ、ハワードらの提唱する本来の意味での田園都市建設に適しい場所があるのではないでしょうか。

田園都市建設、その際やはりクローズアップされてくるのは鉄道の機能です。

列車のスピード如何では群馬栃木の東武沿線は東京1時間圏を形成しうる距離にあるのは見てきた通りです。沿線はまだまだ田園も農村も十分機能しています。

横浜などと違って駅へのアクセスにそうは時間もかかりません。

そうなると、東武電車のスピードそのものが1時間圏形成の大きな鍵を握っており、だから、料金不要速達列車が不可欠だと思うのです。

居住地と職場、学校をできるだけ速く、快適に移動できれば、群馬栃木の東武沿線は住宅地としての魅力を増し、居住者も増えるでしょう。

現にJR宇都宮線の東鷲宮あたりの住宅の増え方には目を瞠るものがあり、JR宇都宮線の利便性向上、池袋・新宿直通やグリーン車の連結と表裏の関係にあるはずです。

新たに家を持つ移転居住者と、既に居宅はあるが東京に通勤・通学するようになってなお住み続ける居住者と、その双方を増すために東武の料金不要速達列車のスピードは重要です。

家族が一緒に住むことで絆が深まり、地域に住人が増えることで地域も活性化する、その一つの形としての「田園都市」、新住民(都市民)と旧住民(農村民)が対立するのではなく、

歴史という縦糸に沿って新たな地域を創造していく(第三の選択)、その構想と実現を鉄道会社から見れば、なにより確実な乗客確保、鉄道事業の基盤ではないでしょうか。

また、東京-小山43分、東京-宇都宮50分といかに新幹線が速くても、

栃木市、鹿沼市などの人間にとって、アクセスを考えるとやはり東武の速達列車の方がありがたいのです。

料金不要であればなおのこと新幹線を選択する理由は何処にもありません。

 

 

改正前のある日の快速で乗り合わせた方は、会津の只見から東京に向かう人でした。郡山、あるいは浦佐に出て新幹線を使うより田島に出て東武を使う方が多いそうです。

栃木市の歴史を繙くと、会津の木材や米が会津西街道、今の国道121号線を経て栃木に運ばれ、船積みされて巴波川、利根川を下って江戸に向かった、という記録に出会います。

会津から来る快速、昔ながらのボックスシートで始まった行きずりの会話から、この電車が歴史をも載せていることに思い至り感慨一入でした。

民鉄は企業ですが、地域住民の生活を担う「公共性」をも併せ持つはずです。

快速電車の復活、あるいは新設は、その公共性の部分を見直し、昨今の悪しきアメリカナイズと一線を画して日本を見つめ直し、沿線の新しい町づくりにもつながる記念碑的な事業ともいえるのではないでしょうか。

だからいっそう「甦れ!快速電車」と、声を大にして訴えたいのです。

 

 

≪参考資料≫

 

 

1.東武時刻表 2004年版、2007年版  東武鉄道株式会社

 

2.JR時刻表  2006年11月号     交通新聞社

 

3.『ある機関助手』蒸気機関車時代に生きた男たちの物語 JICC出版局 JDV-9012

 

4.宮本昌幸:図解・鉄道の科学 -安全・快適・高速・省エネ運転のしくみ-.

 

 

ブルーバックス,講談社,東京.2006

 

5.東武鉄道ホームページ http://www.tobu.co.jp/ もご参照ください。

 

6.Yahoo!JAPAN週間特集Vol.18 JR人気列車カタログ

 

http://weekly.yahoo.co.jp/18/jr/01.html もご参照ください。

 

7.内務省地方局有志:田園都市と日本人.講談社学術文庫,講談社,東京.1980

≪写真撮影≫ 全て筆者

 

カルテ⑮ ヴァイオリンと私

高田クリニックコラム

 

2020.11.30

何部に入るか、迷いながら高校の校舎を彷徨っていたとき、音にひかれて上がって行くと、音楽室に中学のブラスバンドの先輩市村さんがいた。
「いいところに来た。これやって御覧」と、徐に手渡されたのがヴァイオリンである。
「変なものをはじめたなぁ」
200311月に亡くなった父は驚きとも戸惑いともつかぬ調子で言ったものだ。

父は筋金入りの愛鳩家である。医師会も内科学会も平の会員だったが、日本鳩レース協会では顧問を拝命していた。総裁に高松宮様を戴き、代表が会長だからかなり上の方である。会長にという要請もあったそうだが、医者をしながらできるものではないとついに受けなかった。だが、内心満更でもなかったようで、私がもう少し早く家に入っていれば受けられたのかもしれない。

 日本鳩レース協会は上野にある。家内の実家が根津で、食事や買い物に出るのが広小路、不忍池でのボート遊びは五歳になる長女のお気に入りだ。わが家は上野に縁が深い。岳父椿實は、三島由紀夫に絶賛された「人魚紀聞」(河出文庫渋澤龍彦コレクション『暗黒のメルヘン』収載)をものした作家でもあるが、上野を版図とし不忍池を「騒然たる東京に静まる、緑の古宝玉」と讃えた。

 ある日、広小路まで上野の山を越えて行けるか、と長男がいうので、池之端から芸大の脇を抜け、意外に入り組んだ道を当てずっぽうに辿っていくと、日本鳩レース協会の建物に行きあたった。午後休診の水曜日や休日など、取りまとめ役の父はよく協会の会合で上京した。
 「おじいちゃんはここへ来ていたんだ」
 不思議な懐かしさに、残された親子はしばらく協会の建物を見上げていた。

 愛鳩家の息子がどういうわけかヴァイオリンである。もっとも、気分がいいと風呂場で演歌を唸っていた父もそういう意味では好楽家だし、母にも箏曲の嗜みがあるから好楽のDNAは組み込まれているのだろう。
 演歌だろうとモーツァルトだろうと、音楽に違いはない。
 演歌とモーツァルトといえば、調布のホールでオーケストラ・シンポシオンがモーツァルトの20番の協奏曲を演奏したとき、1楽章のカデンツァにテレサ・テンの「つぐない」のメロディーが出てきて仲間と顔を見合わせたことがある。

 ベートーヴェンも愛奏したというこの協奏曲のピアノ・ソロはa’-a”-cis’-e’-d’-d’と始まる。「つぐない」はa’-f”-cis’-e’-e’-d’-d’だから、一音(a”f”)の違いでしかない。そこに着目したお茶目なカデンツァを作曲したのは、讀賣新聞の演奏会評などを書いている安田和信氏である。
 モーツァルト研究者である安田先生、モーツァルトの作品ならほとんどのテーマを暗唱しているようだが、居酒屋かどこかで「つぐない」を耳にした時、忽然とカデンツァの構想「モーツァルトのつぐない」が沸き起こったのかも知れない。
 音楽は面白い。

 高校でヴァイオリンと出会った私は、大学でもオーケストラをやるぞ、と意気込んでいたのだが、合格したのはいわゆる新設医大、富山医科薬科大学だった。大学再編のあおりで近々富山大学医学部となり、残念ながら母校の名はなくなってしまうが、当時は医・薬二学部、全学年が揃っても学生数1,000名という小さな大学だった。しかも私たちは一期生だから入学時はわずか200名である。
クラシックファンなる人種は人口の1%だそうだが、それでは全校で2名の計算だ。楽団はおろか弦楽四重奏にもならない。フィルハーモニー管弦楽団を擁する伝統校に入学できなかったことを悔やんだが後の祭り。そうなれば自分でつくるしかない。2年目になって学生が増えると奇特な人も増え、昭和52年(1977)6月、念願の楽団創設となった。

 ネビル・マリナー率いるアカデミー・オブ・セント=マーチン・イン・ザ・フィールズという室内楽団が弦楽11名で鮮やかなヴィヴァルディの「四季」や「調和の霊感」を聴かせ、魅せられていた頃だ。小所帯で管弦楽団を名乗って、気が付いたらヴァイオリン、トランペット、トロンボーン、コントラバスしかいなかった栃木高校の轍は踏みたくない。基盤となる弦楽合奏をしっかりさせよう。だが「弦楽合奏団」として管楽器を除くのももったいない。それで富山医科薬科大学室内合奏団と名乗ることにした。
 ところが楽器がない。学校はそう易々と買ってはくれない。仕方がないので親を拝み倒して無利子無担保長期返済という都合のいい借金をしてヴァイオリン2丁、ヴィオラ・チェロ各1丁を最低価格で買い揃え、放課後の校舎にキーキーガリガリという妙音(妙なる音?いえ、妙な音)が響くようになった。

 創団の年の夏、帰省した私は高校の友人太田君にばったり出会った。太田君は東京の大学に進学してオーケストラに入っていた。楽団をつくったのなら指導者がいるだろう、竹澤勤先生を紹介する、竹澤先生は長いヴァイオリン歴を有し、ひょっとすると指導もしてくれるかも知れないから一緒に遊びに行こう、と言う。
 室内合奏団を旗揚げしたものの指導者がいるわけでもなく、いつまでたっても妙な音では、だんだんやる気も失せてくる。渡りに舟、と太田君とともに小山市の先生宅を訪れることにした。
 どんな楽団にしたいか、という問いに、
 「モーツァルトをうまく弾きたい」
 今思えば恐いもの知らずの答をしたものだ。しかし先生は「志やよし」と遠方までの指導をご快諾くださり、昭和53年(1978)1月、大雪の中、富山市内の青年の家で行われたはじめての合宿から、遠路指導においでいただくこととなった。まだ上越新幹線もない頃で、寝台急行「能登」で往復されたこともある。

 先生は基礎の大切さを繰り返しご指導下さり、それは今も財産になっている。
 先生の熱意と団員の努力とで、同年10月1日には校内の大講義室で第1回定期演奏会を開催する。初めて楽器を手にして6ヶ月ほどの1年生を含む我々の1年にも満たぬ練習の結果だから、口の悪い友人から“Choito hidoine Nichtmusik”などと散々にからかわれたが、それでもモーツァルトの“Eine kleine Nachtmusik”全4楽章を弾き終えた気分はなかなかに爽快だった。
 引退の年1981年には竹澤先生の尽力で讀賣日本交響楽団の先生方にご来演いただき、よく通ったレコード屋Dick33の横井氏の助言も得て、モーツァルトのお師匠さんともいうべきJ.C.バッハのシンフォニア作品18-2、フンメルの序奏とテーマと変奏、そしてモーツァルトの交響曲第40番という大演奏会を開催するに至る。

 富山時代でもう一つ忘れられないのは、198611月、現在浜松で皮膚科をやっている田中正人君や旧姓塚田真子さん、製薬メーカーに就職した吉仲孝仁君らとともに富山医科薬科大学混声合唱団創団十周年記念演奏会を行ったことだ。記念ということで大きな企画になった。アカペラで中世ルネサンス世俗曲、器楽でヘンデルのトリオ・ソナタ作品2-3、トリは3人の声楽ソロとソロ・ヴァイオリンを含む管弦楽、そして合唱という小規模校にとっては大規模な曲、J.S.バッハのカンタータ140番「目覚めよと呼ぶ声がする」全曲演奏というプログラムである。
 管弦楽は、当時東京芸大生だった竹澤先生のお嬢様のご尽力で、同大を中心とする特別編成。不肖私も第2ヴァイオリンの末席を汚させていただいた。
 自分の下宿を作業場にして、昼間は大学院の実験、夜は団員と当日配布するパンフレットの原稿書きやレイアウト、と文字通り不眠不休の数日もあった。女子団員の思いがけないお握りの差し入れが嬉しく美味しかったことを思い出す。
 演奏面でも資金面でもかなりの冒険だったが、団員の頑張りや顧問はじめ諸先生方のご協力で成し遂げることができた。

 この時ソロ・ヴァイオリンを担当されたのが沼田園子さんである。いつしか疎遠になっていたのだが、吉田秀和氏が朝日新聞「音楽展望」(199811月)で絶賛されたのをきっかけに再び交流が始まり、富山の演奏会から16年を経た2002年7月、わが下野楽遊の1周年を祝う演奏会にご来演いただくことができた。
 音楽の縁とは不思議なものである。
 平成7年(1995)栃木に戻ってから2000年頃までは現在の音楽愛好を彩る諸氏との出会いの場となった栃木[蔵の街]音楽祭(以下蔵音)の運営に熱中した。
 最初の大仕事は第9回出演者の検分である。大平町のピアノ講師平本さん、青年会議所の黒川君と、出演希望のあったオーケストラ・シンポシオンを聴きにお茶の水のカザルスホールまで出かけたのだ。非常に生き生きとした演奏を行う団体で好印象だったため招聘を決めた。2004年から6年にかけて、シリーズコンサート「モーツァルトと行く!ヨーロッパ音楽都市周遊」を浜離宮朝日ホールとの共催で行うまでに成長したこのオーケストラも、蔵音が最初に招いた1997年当時は発足2年目のまだ若いオーケストラであった。

 次の大仕事は、1998年の第10回と全国音楽祭サミットの同時開催である。
 音楽祭のテーマは「新しい風」。栃木の特徴である古楽器を用い、かつ音楽史に新風を巻き起こした作曲家に焦点を当てようと、当時蔵音専門委員だった向江昭雅氏、御出演の桐山建志氏、諸岡範澄氏らのご指導を受けながら演目を決めて行った。そして、ルネサンス時代最高の音楽家ジョスカン・デ・プレ、協奏曲というジャンルを打ち立てたヴィヴァルディ、多感様式といわれる独特な世界を切り開いたC.Ph.E.バッハ、ヴァイオリン独奏曲に創意と工夫を凝らしたシュメルツァー、ビーバー、コレルリ、ルクレールら、そして、交響曲に、協奏曲にさまざまな革新をもたらしたベートーヴェンの作品によるプログラムが出来上がった。
 三菱信託芸術文化財団のパーティーでは在阪の音楽評論家野口幸助氏からお褒めの言葉を頂戴し、期間中は東北から中部地方に至る各地から御参集の愛好家の皆様にご好評をいただいた。最終日のオーケストラ・シンポシオンによるベートーヴェンの「運命」「田園」初演時(1808年)の疑似再現という興味深い演奏会は、「守株」的に「もののけ」ブームの恩恵を受けた米良美一氏の歌曲の会を除けばおそらく蔵音史上最高の入場者675名をチケット半券を数えた実数で記録した。
 しかし蔵音実行委員会は「第10回は盛り上がらなかった」と総括し、その「反省」に基づいて第11回以降が企画されることとなる。ところが、第10回時実数で1,833名だった入場者は、第11回時その4分の3、以降年々減り続け、2004年、第16回時はサクラを入れても800名ほどだったと聞く。 
富山市文化振興室の宮崎さんにもご講演いただいた全国音楽祭サミット栃木大会で具体的に議論された、地域における芸術文化事業の目的、手法を全く省みない形で事業が進められることに問題があると思う。

 我国における文化経済学の泰斗でサミットにお招きした講師の一人池上惇京都大学名誉教授は、栃木の資料をフィンランドで開催された国際学会の発表に引用され、日本の芸術文化の現状を示すものとして注目されたという。
 蔵音が受賞したサントリー地域文化賞の副賞の使い途を話し合ったとき、意義深い音楽祭サミット栃木大会の成果を書籍にまとめ、全国に発信したら栃木の名が高まろう、との意見もあったのだが、1年に3、4日しか使わないチェンバロ、既に市文化会館が1台所有するチェンバロをもう1台購入することに決まった。
 地域に多少なりとも貢献できれば、と参加した蔵音だったが、委員会の議論にはなんともついて行けないものを感じたし、その上、あらぬ中傷まで聞こえるようになって、疎遠になってしまった。
 だが、そこで出会った安田和信氏、オーケストラ・シンポシオンの指揮者・チェロ奏者諸岡範澄氏、夫人でヴィオラの涼子氏、ヴァイオリンの桐山建志氏との交流はその後深まることとなる。
 蔵音から離れ、集めたCDでも聴いて暮らそうか、と思っていたところ、田沼町で内科を開業されている坪水敏夫先生から「一緒に弾きませんか」とアンサンブル参加のお誘いを受けた。もう長いこと楽器を出すこともなく、弦も指も錆び付いてご迷惑ではないか、と思ったのだが、先生の熱心な勧めに練習を見学に行くと、またうずうずとヴァイオリン弾きの虫がうごめきはじめた。そうして安蘇郡市医師会附属ストリングアンサンブル・スーベニール佐野のメンバーにしていただいたのである。
 佐野厚生総合病院在勤中は安蘇郡市医師会員だったから問題ないが、下都賀郡市医師会に変わった時、どうなるかとご相談申し上げると、先生は、
 「所属など関係ありませんから」
と、当然のようにおっしゃって下さり、今も週に1度の佐野通いが続いている。

 先生とご一緒した第16回アマチュア室内楽フェスティバル(2003年1月・銀座王子ホール)も特筆すべき出来事である。全国90570名の応募者から選ばれた18組が自慢の腕を披露するこの演奏会に、富山医科薬科大学室内合奏団の2年後輩で大学入学後チェロを始めた広田弘毅君とその仲間、モルフェウス弦楽四重奏団が出演したのだ。今でこそ母校の麻酔科学助教授として活躍する広田君だが、まだ高校生のような風貌で音階練習に余念がなかった頃から取り組んでいたボロディンの弦楽四重奏第2番の第1楽章を実に立派に演奏した。広田君が20余年間弾き込んできた曲を聴きながら、当時を思い浮かべて深い感慨にとらわれた。
 またぞろ私の中で虫がうごめき始めた。

 2001年6月「地域で身近に古典音楽に親しもう」と下野楽遊という団体を設立し、小山市や藤岡町の喫茶店、館林市のレストランなどでサロンコンサートを開催してきたのだが、その頃ちょっと行き詰まっていた。それぞれの演奏会はヴァイオリンなら桐山建志氏、フォルテピアノは小倉貴久子氏、チェンバロの水永牧子氏、海外からはニコラウ・デ・フィゲイレド氏といったレコード芸術誌特選に輝く実力派ばかりを招いたから非常に印象深かったが、会としては何かが足りない。それは坪水先生や広田君のような、年月を重ねて演奏していく姿ではないか。
 下野楽遊に新たな展望が開けた。モーツァルトの頃がそうだったようにプロの音楽家とアマの愛好家が演奏を通して交流し好楽の和を広げる試みを行おう。蔵音以来の盟友で楽遊の同志でもある吉田公一氏、坪水先生、諸岡夫妻、桐山氏、フォルテピアノ開眼のきっかけを下さった伊藤深雪氏らに相談したところ、幸い御協力いただけることとなり、200312月下野楽遊奏楽塾が開設された。
 準備してきたこととはいえ、父の急逝からわずか1ヶ月後のことで、吉田氏はじめ皆様ご心配下さったが、大きな衝撃から立ち直るためにも、打ち込むものがあった方がよかったように私は思っている。
 佐野市の耳鼻科医斎藤裕夫先生、そして不肖私を含む塾生12名が集まり、奏楽塾が始まった。講師陣は手加減することなくご指導下さった。栃木市郊外星野の里へ節分草を見に行ったり、市内のお店で会食や買い物をしたり(栃木のデパート福田屋のカードを持っている講師もいる!)、地域との交流も深まった。

 2004年9月12日栃木市文化会館で開催された第10回下野楽遊演奏会はその集大成である。1時間半の昼食休憩を挟むとはいえ6時間に及ぶ長い演奏会で、どうなることかと心配だったが、安田和信氏の名司会、講師陣の力演名演、優秀な裏方、そして熱心な塾生・会員の力で、一都四県からご参集の200名ほどの皆様とともに「シューベルトとその時代」を偲ぶ音楽会を楽しむことができた。とりわけシューベルトが神学校時代に演奏したかも知れないモーツァルトのディヴェルティメントKV.136は富山時代からおなじみの曲だが、これまでになくよく響き、いい気分で演奏できた。諸岡講師にも「音楽的」と評され大変嬉しかった。
 「人は生産を通してでなければ附き合へない。消費は人を孤独に陥れる」
 学生時代、初めてこの警句を読んでから何度思い返したことだろう。1960年、福田恆存氏が論文「消費ブームを論ず」にこう記してから40数年が経つ。その意味するところは色褪せるどころかますます心すべきことになっているのではないだろうか。
 私の音楽愛好がコンサートに出かけたり、音盤を集めて聴くだけの孤独な「消費」に留まらず、奏楽や演奏会開催といった「生産」を通して人と「附き合」っていけるようになったのは、ヴァイオリンと皆様のおかげである。
 生産を通した附き合いは次々に出会いを生み出す。

 第10回を聴いた会員の希望で2005年1月22日には歌曲によるサロンコンサートが決まった。松堂久美恵・小倉貴久子という豪華キャストでシューベルト、ベルク、R.シュトラウス、林光、武満徹らの作品をコーヒー片手に楽しむのだ。
 奏楽塾の大演奏会はモーツァルト生誕250年の2006年。目下の態勢では、弦楽合奏とフォルテピアノに声楽くらいの編成でないといろいろと厳しいので、選曲に条件が加わるが、ハンディを克服するのも楽しみの内である。
 満を持して挙げた一曲は、J.S.バッハの次男C.Ph.E.バッハ作曲のシンフォニアWq182-5。モーツァルトの支援者でもあるウィーンの好楽貴族ヴァン・スヴィーテン男爵の依頼で1773年に作られた曲だ。映画「アマデウス」の冒頭で使われたモーツァルトの交響曲第25番と同じ年の作品である。学生時代、聴いた瞬間虜になり譜面だけ買ってあったのだ。楽譜の綴じ金がすっかり錆びるほど昔のことである。この度ようやく陽の目を見る。ただ試奏の時、楽譜を一目見た諸岡講師は、
 「本当にやるの?。激ムズ(過激に難しい)ですよ」
と、驚きの声を上げたので、どうなりますことか。
 ベートーヴェンの第9のテーマに似た節の出てくるモーツァルトのオッフェルトリウム「主のお憐みを」KV.222、リート的な教会様式の巧緻を極めた作品というグラドゥアーレ“Sancta Maria, Mater Dei”KV.273はいずれも6、7分の短い曲で、安田先生に相談したら編成も混声合唱と弦楽合奏、総譜もあるという。パート譜をつくる手間が必要だが、これはできそうだ。
 よろしかったら下野楽遊の演奏会にお出かけ下さい。歌でも器楽でもご一緒に演奏もいかがですか?。

 割をくっているかも知れない家族、そして今回このような文章を発表する機会を与えて下さった下都賀郡市医師会、医薬大同窓会の先生方に深謝して結びとする。(本稿は下都賀郡市医師会報用の文章に若干の改変を加えて医薬大版とした)

カルテ⑭ 去る人、来る人 または 数字でみる[蔵の街]音楽祭 2  1999 4月号 蔵の街クリニック原稿

高田クリニックコラム

 

2020.11.30

卒業・入学、就職・退職、転出・転入。
春は別れと出会いの季節でもある。
去る人の影、来る人の姿、別れの哀しみを癒す出会いの喜びがあるといい。
3月号で、第10回音楽祭を数字でみると、問題となるような集客の落ち込みはないといった。
しかし、一部の実行委員は「いつもチケットを買ってくれる人が今回は買ってくれなかった」と嘆く。
実行委員周辺でチケット売上が落ち込んだにもかかわらず全体の集客が落ち込まなかったのは他から新たに人が来たからに違いない。
表4、表5を見よう。

表4は当音楽祭を何で知ったか、来場者に情報源を尋ねたものだ。

( 表4 )

 

  当音楽祭を何で知ったか?
( 1 ) ポスター・チラシ・新聞・放送等マスメディア     45%
( 2 ) ダイレクトメール・友人知人等 プライベートメディア 44%
( 3 )           その他 11%         

小都市のチケット売上は、手売り。
つまり、主催者が知人・友人を介して売り捌くのが主だといわれている
(音楽祭の現状と問題点-全国楽勢調査集計結果-第9回全国音楽祭サミット栃木大会資料集,1998,p27)
この場合の広告媒体はプライベートメディアだろう。
しかし表4は、ほぼ同数の人が新聞、チラシなどマスメディアで[蔵の街]音楽祭を知って栃木を訪れたことを示す。

どちらからいらっしゃいましたか、と訊ねた結果が表5だ。

 

( 表5 )

 

(1) 栃木市内 22.4% 22.4%
(2) 栃木県内 45.9%
(3) 首都圏 27.9% 77.6%
(4) その他 3.8%

「その他」には、福岡、香川、奈良、静岡、富山、新潟、福島、宮城などの方々が含まれる。
この中にサミット参加者と目される人は入っていない。
この数字は、以前からいわれてきた当音楽祭を訪れる人は、市内1/3県内1/3・県外1/3との観測にほぼ一致する。
表4、5から、当音楽祭が地縁、血縁を越え各地の音楽ファンに訴求力をもっていることがわかる。
切符が売れなかった実行委員の失意は察するに余りあるがそれにばかり気を取られ現に売れている事実を見落とすのはいかがなものだろう。
我々が考えなければならないのは広域集客と地元聴衆の発掘の手法の違いではないだろうか。
表6は、1演目のみの鑑賞か、2演目以上の鑑賞かを市内市外毎にまとめたものだ。
参考までに全体を100%とした数値を()内に示す。

( 表6 )

 

(表6) 市内  市外
1演目のみ鑑賞 45%( 9.4%) 66%(52.0%)
2演目以上鑑賞 55%(11.4%) 34%(27.2%)
100% 100% (100%)

回答者全体では、市外から来て1演目のみ鑑賞した人がもっとも多い(52%)
しかし、市内、市外それぞれを100%とすると、市内の人は「2演目以上鑑賞」が半数を越える(55%)のに対し市外の人は「1演目のみ鑑賞」の方が多い(66%)。
この違いは、10年の歴史の中で栃木市民が音楽祭期間中にさまざまな音楽を楽しむ習慣を身につけるようになったことを示してはいないだろうか。
たしかに絶対数は多くない。
しかし音楽祭のあるなしで市民の行動パターンに差が出るとしたら興味深いことだ。
次に聴衆の行動パターンと演奏会の内容の関係をうかがおう。

表7は、今度は演奏会毎に、コンサートを1つだけ聴くか2つ以上聴くか、をまとめたものである。

( 表7 )

 

ふえ・
古今東西
ルネサンスの
ウ゛ィウ゛ァルテ゛ィ
の試み
エマヌエル・バッハの
感情
コン・ウ゛ァリ
アチオーネン
革新者
ヘ゛ートーウ゛ェン
  1演目   83% 56% 44% 31% 56% 54%
  2演目以上   17% 44% 56% 69% 44% 46%

すぐ目につくのは、「ふえ・古今東西」では1演目のみが圧倒的に多く(83%)
「エマヌエル・バッハの感情」では2演目以上が多い(69%)ことだ。
野外コンサートで親しみやすい、吉沢実氏による「ふえ・古今東西」は376名と数は集まったが、多くの回答者はそれしか聴かない。
一方、クラシックの中でもどちらかといえば通好みの「エマヌエル・バッハの感情」は、定員150名が満席でしかも回答者の69%は他の演奏会も聴く。
複数の演奏会が開催される音楽祭で、親しみやすさが最大の価値基準かを考えさせられる数字である。
医師は血液検査の数値だけで診断を下すわけではない。
しかし、血液検査の数値は診断の基礎的データの一つであり重要な参考事項だ。同様にこれまで挙げた数字は第11回以降、栃木の音楽祭が何を目指し、それをどう実現していくかを考える基礎的データであり参考事項であろう。
見てきたように、音楽祭は、広い地域から栃木に来る人を増加させた。
人が集まることで、地域のイメージや品格が高まったりローカルビジネスが成立したりする。
ひいては、地域の活力や文化的伝統といったストックの形成に与るだろう。
文化事業の開催には、こうした地域住民の共通の欲求をも満たすとされる外部効果があり、注目されている(全体会議録 第9回全国音楽祭サミット栃木大会事業報告書,1999,p17)
地域住民の理解を得るのに、浅薄で押しつけがましい「啓蒙思想」を振りかざして
地元聴衆のわずかな増加を図るのがよいのか地域の品格やビジネス効果といった、
外部効果に至る文化事業のさまざまな側面をきちんと評価提示して「納税者の合意を得る」ことが重要か。
また、音楽祭と地域の関係を密にするには音楽ファンでない人の力が発揮される場の整備も課題かも知れない。
アーティストと地域住民の味覚の触れ合から芸術に迫る鹿児島県牧園町の郷土料理による交流会などは一例であろう。
一方、既に実現している広域集客を維持増強するには、音楽ファンなら多少遠くても行きたいと思うような演奏会や音楽祭そのものの魅力の創出が不可欠だ。
個々の演奏曲目はもちろん、全体のテーマ性、演奏会場としての歴史的建造物、アーティスト・聴衆・地域の交流、町の魅力など、検討課題は多い。
では、地域の芸術文化の普及に必要なのは何か。
年に一度の音楽祭の内容を「親しみやすくする」
といった姑息な方法か
那須野が原ハーモニーホールの合唱講座
オーケストラ講座のような日常的な教育事業なのか。
古典に親しむには多少の準備が必要
(大岡信:古典を読む理由と意義.夕刊読売新聞 6.5.1998)
との見解は参考になろう。
文化事業の生産的側面、すなわち音楽鑑賞などの消費ではなく
そこに至る過程、企画・運営や集客、あるいは演奏、教育といった生産や創造の面に注目すると文化事業の動的性格が見えてくる。その時、担い手である地域住民は
持てる力を集めるだけでなく高める必要を感ずるだろう。
住民の意欲と事業効果が相互に作用すればそのダイナミクス自体が地域創造の活力の証とも、源泉ともなるに違いない。
栃木が古典音楽を国際評価に耐え得るまで追求したら世界のどこから人が来て、どんな外部効果が生まれるか、そうした広がりを意識のどこかにおきながら
これからの音楽祭、地域づくりを考え、実践・研究できるとよい。
音楽祭開催10年を過ぎ、サミットを経験した栃木の文化事業が今後、全国のモデルとなるか、物笑いとなるか。
住む者の心がけ次第である。
本稿に使用したデータは、第10回[蔵の街]音楽祭演奏会場で回収した観客アンケートをもとに実行委員小杉和敏氏がまとめたものである。
氏の根気強い作業に最大の敬意を表したい。

カルテ⑬数字でみる[蔵の街]音楽祭 1 1999 3月号 蔵の街クリニック原稿

高田クリニックコラム

 

2020.11.30

先頃、昨年の第10回[蔵の街]音楽祭の報告書がまとまった。
興味深い数字があるので御紹介旁検討を試みたい。
まず、第10回音楽祭全体の延べ参加者。表1の通りである。

(表1)

 

第8回 第9回 第10回
延べ参加者 6,091 6,366 5,109
要因 市内中学生招待900 もののけ姫ヒット1,000 音楽祭サミット250
補正参加者 100% 5,191 5,366

第9回は「明治の学舎・日本のメロディー」に出演する
米良美一氏がアニメーション映画「もののけ姫」で一躍脚光を浴びるという先見というより「神風」というべき幸運があった。
米良氏のコンサートはもともと栃木高校講堂を会場に300名程度の聴衆を想定していたのだから1,293名の聴衆とはいっても「もののけ効果」1,000名程は差し引いてみるのが慎みというものだろう。
運も実力の内、と開き直るか、身の程にあった見方をするかで参加者すなわち集客、ひいては音楽祭の評価は異なる。
委員の中には第10回がこれまでと比較して「盛り上がらなかった」という人もいる。
しかし、表1に現れた数字のどの差をもってそう言うか、議論のあるところだろう。
次に各演目の参加者。表2の通りである。

 

( 表2 )

 

ふえ・
古今東西
ルネサンスの
ウ゛ィウ゛ァルテ゛ィ
の試み
エマヌエル・バッハの
感情
コン・ウ゛ァリ
アチオーネン
革新者
ヘ゛ートーウ゛ェン
参加者 376名 185名 274名 155名 168名 675名

入場無料のメインステージの参加者は表3の通り。

 

(表3)

 

第8回 2,415名
第9回 940名
第10回 1,210名

 

メインステージは第8回からの開催である。
初回は、提案者でリコーダー奏者の向江昭雅氏らの御尽力により圧倒的な数のコンサートが開催された。
それが参加者の数にも反映していると思う。
勿論、入場券のない「メイン」の観客数は半券を数えるわけではないので概数である。
とはいえ、第10回は第9回よりは空席が目立たなかった印象はあり、
「メイン」が定着しつつあるとは言えるかも知れない。
今回初めて見に来て、来年もぜひ、という人もいるから
メインステージの内容、PRは今後一層の意を用いるべきだろう。
ところが、入場無料のコンサートに経費を掛けるべきではないとの意見もある。
しかし、見に来た人が「来年も」と思う内容とは
少なくとも見に来る価値のあるものでなければならないのも当然だ。
メインステージのもつ意義を主催者がどうとらえ、芸術音楽の普及、若手奏者の励みといった「決まり文句」の実体をどう創り出すのか、才覚手腕の問われる場面だ。
メインステージに3回連続出演し昨年の12月、名古屋と東京でリサイタルを開いて好評を博した魅力ある奏者からこんな手紙が届いた。
「栃木の街は音楽祭のおかげで『また来たくなる街』になっていると私は思います。演奏を聴いたりしたりする楽しみの他にも、うなぎやラーメンを食べにいくことさまざまな人と出会えるのも魅力です。
私自身に関していえば、蔵の街に出ていなければリサイタルを開かないかと声を掛けられることもなかったと思います。」
なかなか示唆に富むと思うが、読者諸氏はどう思われるだろう。
市内22.4%が少ないことを重視するか、市外77.6%が多いことを重視するかで「街おこしとして、税金を投入する事業だから」という同じ理由にもかかわらず二つの異なる音楽祭像を描くことができそうだ。
次回はそれを検討したい。(つづく)

カルテ⑫ 昔を知るということ-200CDモーツァルト頌 1999 2月号 蔵の街クリニック 原稿

高田クリニックコラム

 

2020.11.30

1月27日はW.A.モーツァルトの誕生日だ。
惜しくも208年前、35歳の若さで世を去ったがその音楽は今も世界中の人々に愛好されている。
そればかりか「鍵盤を布で覆い隠した上からでも見事にクラヴィーアを弾きこなした」とか「ローマのシスティーナ礼拝堂門外不出の秘曲《ミゼレーレ》
(という名の多声部の無伴奏合唱曲)をその場で記憶し、後で正確に書き写して人々を驚嘆させた」とか下品な冗談も好きだった、とか生涯を彩る様々なエピソードまで今も人々の話題に上るのだ。
最近私は、モーツァルトを描いた楽しい本に出会った。
[蔵の街]音楽祭情報班員でもある安田和信氏ら、モーツァルトが好きでしょうがない5人の若手音楽学者が思いの丈を綴った200CDモーツァルトだ。

CDガイドには違いないが、「これが名盤だから買いなさい」といった提灯ガイドではなく、
なぜそのCDに価値があるのか、一つの曲に複数のCDを挙げてきちんとその理由が書いてある。その理由が面白い。
例えば、栃木の音楽祭の特徴である古楽器の演奏なら、どんな種類の楽器を使うつもりで創ったか、奏者何人で弾くことを考えて創ったか、など、音楽学の研究成果をもCD選びの視点にしているのだ。
音楽学の研究は、作曲者の指示のない奏者の数なども宮廷用とか、貴族の婚礼用といったその曲の背景から宮廷の家計簿を調べたり婚礼に参加した人の手紙の記述などを調べて当時の演奏の実際を割り出していくそうだ。
我々は、そうしたガイドに導かれ、モーツァルトの音楽の向こうに当時の演奏を取り巻く人々の生活や思いをも描くことができる。
これは楽しい。

屁理屈の好きな人は、「初演当時の再現にどれほどの意味があるのか」と言うかもしれない当たり前のことだが八百比丘尼ならぬ生身の人間は何百年も生きられはしない。
200年前は確かにそうだったなどと請け合うことなど誰にもできはしないのだ。
だが、現代に残された過去の断片から
ある時代の様子をうかがうとき、そこに見えてくる何かがある。
モーツァルト時代の楽器の音色や特性を頼りに現代とは違っていたであろう弾き方や、同時代の他の作品との違いなども考え合わせモーツァルトが、どのような新しい響きや音楽を創りだそうとしたかを探る試みは刺激的だ。
我々も知る音楽が、当時どんな風に響き、人々はそれをどう受けとめたか。
知っているはずのモーツァルトの「新しさ」「生々しさ」がそこに浮かび上がる。
トスカニーニ、クレンペラー、ワルター、ベーム、カラヤンといった一世を風靡した演奏家の、いわば現代から過去に光を当てた演奏とは違ったモーツァルト像が現れるはずだ。
それが古楽器を聴く楽しみだろう。
演奏家の視点の違いを無視して、往年の名演と新進の演奏の優劣を問う議論は知的怠慢だと私は思う。
どちらが好きか嫌いかはそれぞれの意義を認めた上での話だろう。
200CDモーツァルトは周到、公正だ。

10回蔵の街音楽祭最終日。
オーケストラ・シンポシオンが古楽器でベートーヴェンの二つの交響曲とクラヴィーア協奏曲を演奏した。
聴衆は熱狂。客席に明かりがついても拍手はなり止まなかった。
古楽情報誌アントレは、音楽学の関根敏子先生が「斬新な挑戦」「国際レベルからみても高い水準」と評価、
その基盤となる楽譜の考証にも注目し、「音楽学研究と演奏実践の結びつきは、古楽の分野でもっとも必要とされているのではないか」との提言をも掲載した。
ところが「ひどい演奏」という人もいるのだ。
なぜかはわからない。
あるいは演奏困難な楽器の2、3のミスを責めているのだろうか。
とすれば気の毒なことに、ミスはわかったが演奏の意図や価値はわからなかったことになる。
ミスの有無が音楽演奏の至上の価値か、については、ある音楽ファン(彼が聴くコンサートの数は半端じゃありません。
ホームページに「古楽と癒しの館」を開設し自由に感想を述べている)の
「つまらないノーミスの演奏よりおもしろい八方破れの演奏の方が良いと思うので気にしない」
という意見を紹介して、読者の参考に供したい。
たしかに「シンポ」の演奏は、ベルリン・フィルやNHK交響楽団など現代仕様のベートーヴェンに慣れた人には違和感があったようだ。
栃木読売19981024日の「窓辺」氏は
「音楽祭の特徴の古楽器によるオーケストラが聴き慣れたものとはずいぶん違う演奏をした」と書く。だが、氏は「はじめの違和感は『これが古楽器なんだ』と納得した途端かけがえのない演奏に出合った喜びに変わった」と古楽器オーケストラ体験を世界観の深化に昇華させた。
昔を知って、今と違っていたら、昔が悪いのか。
おめでたい進化信仰に出会いの喜びはあるまい。
時代を越えた生き様の出会い、その触感が歴史認識に違いない。
そこに知恵もひそむのだ。
200CDモーツァルトを読みながら、そんなことを考えた。
モーツァルトが何を考え、どう生きたか、当時の社会情勢や人間関係にまで踏み込んでいきいきと描く5氏の筆にはモーツァルトの体温を感じさせる熱さがある。
また、「ほぼ同音型の連なりだけでアップテンポで音楽が進む中ケルビーノが奥方のことを言及する時だけ短調にするという心遣い」
(フィガロの結婚の項)などの記述は、「中心に頭脳のある音楽」(H.C.ロビンス・ランドン:「モーツァルト」中公新書)の「楽しみ方」をも示してくれる。
200CDモーツァルト」立風書房刊。本体1,800-
どこの本屋さんでも取り寄せてくれるはずだ。
都心の大きな書店なら店頭にあるかも知れない。