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高田クリニックコラム

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カルテ⑮ ヴァイオリンと私

高田クリニックコラム

 

2020.11.30

何部に入るか、迷いながら高校の校舎を彷徨っていたとき、音にひかれて上がって行くと、音楽室に中学のブラスバンドの先輩市村さんがいた。
「いいところに来た。これやって御覧」と、徐に手渡されたのがヴァイオリンである。
「変なものをはじめたなぁ」
200311月に亡くなった父は驚きとも戸惑いともつかぬ調子で言ったものだ。

父は筋金入りの愛鳩家である。医師会も内科学会も平の会員だったが、日本鳩レース協会では顧問を拝命していた。総裁に高松宮様を戴き、代表が会長だからかなり上の方である。会長にという要請もあったそうだが、医者をしながらできるものではないとついに受けなかった。だが、内心満更でもなかったようで、私がもう少し早く家に入っていれば受けられたのかもしれない。

 日本鳩レース協会は上野にある。家内の実家が根津で、食事や買い物に出るのが広小路、不忍池でのボート遊びは五歳になる長女のお気に入りだ。わが家は上野に縁が深い。岳父椿實は、三島由紀夫に絶賛された「人魚紀聞」(河出文庫渋澤龍彦コレクション『暗黒のメルヘン』収載)をものした作家でもあるが、上野を版図とし不忍池を「騒然たる東京に静まる、緑の古宝玉」と讃えた。

 ある日、広小路まで上野の山を越えて行けるか、と長男がいうので、池之端から芸大の脇を抜け、意外に入り組んだ道を当てずっぽうに辿っていくと、日本鳩レース協会の建物に行きあたった。午後休診の水曜日や休日など、取りまとめ役の父はよく協会の会合で上京した。
 「おじいちゃんはここへ来ていたんだ」
 不思議な懐かしさに、残された親子はしばらく協会の建物を見上げていた。

 愛鳩家の息子がどういうわけかヴァイオリンである。もっとも、気分がいいと風呂場で演歌を唸っていた父もそういう意味では好楽家だし、母にも箏曲の嗜みがあるから好楽のDNAは組み込まれているのだろう。
 演歌だろうとモーツァルトだろうと、音楽に違いはない。
 演歌とモーツァルトといえば、調布のホールでオーケストラ・シンポシオンがモーツァルトの20番の協奏曲を演奏したとき、1楽章のカデンツァにテレサ・テンの「つぐない」のメロディーが出てきて仲間と顔を見合わせたことがある。

 ベートーヴェンも愛奏したというこの協奏曲のピアノ・ソロはa’-a”-cis’-e’-d’-d’と始まる。「つぐない」はa’-f”-cis’-e’-e’-d’-d’だから、一音(a”f”)の違いでしかない。そこに着目したお茶目なカデンツァを作曲したのは、讀賣新聞の演奏会評などを書いている安田和信氏である。
 モーツァルト研究者である安田先生、モーツァルトの作品ならほとんどのテーマを暗唱しているようだが、居酒屋かどこかで「つぐない」を耳にした時、忽然とカデンツァの構想「モーツァルトのつぐない」が沸き起こったのかも知れない。
 音楽は面白い。

 高校でヴァイオリンと出会った私は、大学でもオーケストラをやるぞ、と意気込んでいたのだが、合格したのはいわゆる新設医大、富山医科薬科大学だった。大学再編のあおりで近々富山大学医学部となり、残念ながら母校の名はなくなってしまうが、当時は医・薬二学部、全学年が揃っても学生数1,000名という小さな大学だった。しかも私たちは一期生だから入学時はわずか200名である。
クラシックファンなる人種は人口の1%だそうだが、それでは全校で2名の計算だ。楽団はおろか弦楽四重奏にもならない。フィルハーモニー管弦楽団を擁する伝統校に入学できなかったことを悔やんだが後の祭り。そうなれば自分でつくるしかない。2年目になって学生が増えると奇特な人も増え、昭和52年(1977)6月、念願の楽団創設となった。

 ネビル・マリナー率いるアカデミー・オブ・セント=マーチン・イン・ザ・フィールズという室内楽団が弦楽11名で鮮やかなヴィヴァルディの「四季」や「調和の霊感」を聴かせ、魅せられていた頃だ。小所帯で管弦楽団を名乗って、気が付いたらヴァイオリン、トランペット、トロンボーン、コントラバスしかいなかった栃木高校の轍は踏みたくない。基盤となる弦楽合奏をしっかりさせよう。だが「弦楽合奏団」として管楽器を除くのももったいない。それで富山医科薬科大学室内合奏団と名乗ることにした。
 ところが楽器がない。学校はそう易々と買ってはくれない。仕方がないので親を拝み倒して無利子無担保長期返済という都合のいい借金をしてヴァイオリン2丁、ヴィオラ・チェロ各1丁を最低価格で買い揃え、放課後の校舎にキーキーガリガリという妙音(妙なる音?いえ、妙な音)が響くようになった。

 創団の年の夏、帰省した私は高校の友人太田君にばったり出会った。太田君は東京の大学に進学してオーケストラに入っていた。楽団をつくったのなら指導者がいるだろう、竹澤勤先生を紹介する、竹澤先生は長いヴァイオリン歴を有し、ひょっとすると指導もしてくれるかも知れないから一緒に遊びに行こう、と言う。
 室内合奏団を旗揚げしたものの指導者がいるわけでもなく、いつまでたっても妙な音では、だんだんやる気も失せてくる。渡りに舟、と太田君とともに小山市の先生宅を訪れることにした。
 どんな楽団にしたいか、という問いに、
 「モーツァルトをうまく弾きたい」
 今思えば恐いもの知らずの答をしたものだ。しかし先生は「志やよし」と遠方までの指導をご快諾くださり、昭和53年(1978)1月、大雪の中、富山市内の青年の家で行われたはじめての合宿から、遠路指導においでいただくこととなった。まだ上越新幹線もない頃で、寝台急行「能登」で往復されたこともある。

 先生は基礎の大切さを繰り返しご指導下さり、それは今も財産になっている。
 先生の熱意と団員の努力とで、同年10月1日には校内の大講義室で第1回定期演奏会を開催する。初めて楽器を手にして6ヶ月ほどの1年生を含む我々の1年にも満たぬ練習の結果だから、口の悪い友人から“Choito hidoine Nichtmusik”などと散々にからかわれたが、それでもモーツァルトの“Eine kleine Nachtmusik”全4楽章を弾き終えた気分はなかなかに爽快だった。
 引退の年1981年には竹澤先生の尽力で讀賣日本交響楽団の先生方にご来演いただき、よく通ったレコード屋Dick33の横井氏の助言も得て、モーツァルトのお師匠さんともいうべきJ.C.バッハのシンフォニア作品18-2、フンメルの序奏とテーマと変奏、そしてモーツァルトの交響曲第40番という大演奏会を開催するに至る。

 富山時代でもう一つ忘れられないのは、198611月、現在浜松で皮膚科をやっている田中正人君や旧姓塚田真子さん、製薬メーカーに就職した吉仲孝仁君らとともに富山医科薬科大学混声合唱団創団十周年記念演奏会を行ったことだ。記念ということで大きな企画になった。アカペラで中世ルネサンス世俗曲、器楽でヘンデルのトリオ・ソナタ作品2-3、トリは3人の声楽ソロとソロ・ヴァイオリンを含む管弦楽、そして合唱という小規模校にとっては大規模な曲、J.S.バッハのカンタータ140番「目覚めよと呼ぶ声がする」全曲演奏というプログラムである。
 管弦楽は、当時東京芸大生だった竹澤先生のお嬢様のご尽力で、同大を中心とする特別編成。不肖私も第2ヴァイオリンの末席を汚させていただいた。
 自分の下宿を作業場にして、昼間は大学院の実験、夜は団員と当日配布するパンフレットの原稿書きやレイアウト、と文字通り不眠不休の数日もあった。女子団員の思いがけないお握りの差し入れが嬉しく美味しかったことを思い出す。
 演奏面でも資金面でもかなりの冒険だったが、団員の頑張りや顧問はじめ諸先生方のご協力で成し遂げることができた。

 この時ソロ・ヴァイオリンを担当されたのが沼田園子さんである。いつしか疎遠になっていたのだが、吉田秀和氏が朝日新聞「音楽展望」(199811月)で絶賛されたのをきっかけに再び交流が始まり、富山の演奏会から16年を経た2002年7月、わが下野楽遊の1周年を祝う演奏会にご来演いただくことができた。
 音楽の縁とは不思議なものである。
 平成7年(1995)栃木に戻ってから2000年頃までは現在の音楽愛好を彩る諸氏との出会いの場となった栃木[蔵の街]音楽祭(以下蔵音)の運営に熱中した。
 最初の大仕事は第9回出演者の検分である。大平町のピアノ講師平本さん、青年会議所の黒川君と、出演希望のあったオーケストラ・シンポシオンを聴きにお茶の水のカザルスホールまで出かけたのだ。非常に生き生きとした演奏を行う団体で好印象だったため招聘を決めた。2004年から6年にかけて、シリーズコンサート「モーツァルトと行く!ヨーロッパ音楽都市周遊」を浜離宮朝日ホールとの共催で行うまでに成長したこのオーケストラも、蔵音が最初に招いた1997年当時は発足2年目のまだ若いオーケストラであった。

 次の大仕事は、1998年の第10回と全国音楽祭サミットの同時開催である。
 音楽祭のテーマは「新しい風」。栃木の特徴である古楽器を用い、かつ音楽史に新風を巻き起こした作曲家に焦点を当てようと、当時蔵音専門委員だった向江昭雅氏、御出演の桐山建志氏、諸岡範澄氏らのご指導を受けながら演目を決めて行った。そして、ルネサンス時代最高の音楽家ジョスカン・デ・プレ、協奏曲というジャンルを打ち立てたヴィヴァルディ、多感様式といわれる独特な世界を切り開いたC.Ph.E.バッハ、ヴァイオリン独奏曲に創意と工夫を凝らしたシュメルツァー、ビーバー、コレルリ、ルクレールら、そして、交響曲に、協奏曲にさまざまな革新をもたらしたベートーヴェンの作品によるプログラムが出来上がった。
 三菱信託芸術文化財団のパーティーでは在阪の音楽評論家野口幸助氏からお褒めの言葉を頂戴し、期間中は東北から中部地方に至る各地から御参集の愛好家の皆様にご好評をいただいた。最終日のオーケストラ・シンポシオンによるベートーヴェンの「運命」「田園」初演時(1808年)の疑似再現という興味深い演奏会は、「守株」的に「もののけ」ブームの恩恵を受けた米良美一氏の歌曲の会を除けばおそらく蔵音史上最高の入場者675名をチケット半券を数えた実数で記録した。
 しかし蔵音実行委員会は「第10回は盛り上がらなかった」と総括し、その「反省」に基づいて第11回以降が企画されることとなる。ところが、第10回時実数で1,833名だった入場者は、第11回時その4分の3、以降年々減り続け、2004年、第16回時はサクラを入れても800名ほどだったと聞く。 
富山市文化振興室の宮崎さんにもご講演いただいた全国音楽祭サミット栃木大会で具体的に議論された、地域における芸術文化事業の目的、手法を全く省みない形で事業が進められることに問題があると思う。

 我国における文化経済学の泰斗でサミットにお招きした講師の一人池上惇京都大学名誉教授は、栃木の資料をフィンランドで開催された国際学会の発表に引用され、日本の芸術文化の現状を示すものとして注目されたという。
 蔵音が受賞したサントリー地域文化賞の副賞の使い途を話し合ったとき、意義深い音楽祭サミット栃木大会の成果を書籍にまとめ、全国に発信したら栃木の名が高まろう、との意見もあったのだが、1年に3、4日しか使わないチェンバロ、既に市文化会館が1台所有するチェンバロをもう1台購入することに決まった。
 地域に多少なりとも貢献できれば、と参加した蔵音だったが、委員会の議論にはなんともついて行けないものを感じたし、その上、あらぬ中傷まで聞こえるようになって、疎遠になってしまった。
 だが、そこで出会った安田和信氏、オーケストラ・シンポシオンの指揮者・チェロ奏者諸岡範澄氏、夫人でヴィオラの涼子氏、ヴァイオリンの桐山建志氏との交流はその後深まることとなる。
 蔵音から離れ、集めたCDでも聴いて暮らそうか、と思っていたところ、田沼町で内科を開業されている坪水敏夫先生から「一緒に弾きませんか」とアンサンブル参加のお誘いを受けた。もう長いこと楽器を出すこともなく、弦も指も錆び付いてご迷惑ではないか、と思ったのだが、先生の熱心な勧めに練習を見学に行くと、またうずうずとヴァイオリン弾きの虫がうごめきはじめた。そうして安蘇郡市医師会附属ストリングアンサンブル・スーベニール佐野のメンバーにしていただいたのである。
 佐野厚生総合病院在勤中は安蘇郡市医師会員だったから問題ないが、下都賀郡市医師会に変わった時、どうなるかとご相談申し上げると、先生は、
 「所属など関係ありませんから」
と、当然のようにおっしゃって下さり、今も週に1度の佐野通いが続いている。

 先生とご一緒した第16回アマチュア室内楽フェスティバル(2003年1月・銀座王子ホール)も特筆すべき出来事である。全国90570名の応募者から選ばれた18組が自慢の腕を披露するこの演奏会に、富山医科薬科大学室内合奏団の2年後輩で大学入学後チェロを始めた広田弘毅君とその仲間、モルフェウス弦楽四重奏団が出演したのだ。今でこそ母校の麻酔科学助教授として活躍する広田君だが、まだ高校生のような風貌で音階練習に余念がなかった頃から取り組んでいたボロディンの弦楽四重奏第2番の第1楽章を実に立派に演奏した。広田君が20余年間弾き込んできた曲を聴きながら、当時を思い浮かべて深い感慨にとらわれた。
 またぞろ私の中で虫がうごめき始めた。

 2001年6月「地域で身近に古典音楽に親しもう」と下野楽遊という団体を設立し、小山市や藤岡町の喫茶店、館林市のレストランなどでサロンコンサートを開催してきたのだが、その頃ちょっと行き詰まっていた。それぞれの演奏会はヴァイオリンなら桐山建志氏、フォルテピアノは小倉貴久子氏、チェンバロの水永牧子氏、海外からはニコラウ・デ・フィゲイレド氏といったレコード芸術誌特選に輝く実力派ばかりを招いたから非常に印象深かったが、会としては何かが足りない。それは坪水先生や広田君のような、年月を重ねて演奏していく姿ではないか。
 下野楽遊に新たな展望が開けた。モーツァルトの頃がそうだったようにプロの音楽家とアマの愛好家が演奏を通して交流し好楽の和を広げる試みを行おう。蔵音以来の盟友で楽遊の同志でもある吉田公一氏、坪水先生、諸岡夫妻、桐山氏、フォルテピアノ開眼のきっかけを下さった伊藤深雪氏らに相談したところ、幸い御協力いただけることとなり、200312月下野楽遊奏楽塾が開設された。
 準備してきたこととはいえ、父の急逝からわずか1ヶ月後のことで、吉田氏はじめ皆様ご心配下さったが、大きな衝撃から立ち直るためにも、打ち込むものがあった方がよかったように私は思っている。
 佐野市の耳鼻科医斎藤裕夫先生、そして不肖私を含む塾生12名が集まり、奏楽塾が始まった。講師陣は手加減することなくご指導下さった。栃木市郊外星野の里へ節分草を見に行ったり、市内のお店で会食や買い物をしたり(栃木のデパート福田屋のカードを持っている講師もいる!)、地域との交流も深まった。

 2004年9月12日栃木市文化会館で開催された第10回下野楽遊演奏会はその集大成である。1時間半の昼食休憩を挟むとはいえ6時間に及ぶ長い演奏会で、どうなることかと心配だったが、安田和信氏の名司会、講師陣の力演名演、優秀な裏方、そして熱心な塾生・会員の力で、一都四県からご参集の200名ほどの皆様とともに「シューベルトとその時代」を偲ぶ音楽会を楽しむことができた。とりわけシューベルトが神学校時代に演奏したかも知れないモーツァルトのディヴェルティメントKV.136は富山時代からおなじみの曲だが、これまでになくよく響き、いい気分で演奏できた。諸岡講師にも「音楽的」と評され大変嬉しかった。
 「人は生産を通してでなければ附き合へない。消費は人を孤独に陥れる」
 学生時代、初めてこの警句を読んでから何度思い返したことだろう。1960年、福田恆存氏が論文「消費ブームを論ず」にこう記してから40数年が経つ。その意味するところは色褪せるどころかますます心すべきことになっているのではないだろうか。
 私の音楽愛好がコンサートに出かけたり、音盤を集めて聴くだけの孤独な「消費」に留まらず、奏楽や演奏会開催といった「生産」を通して人と「附き合」っていけるようになったのは、ヴァイオリンと皆様のおかげである。
 生産を通した附き合いは次々に出会いを生み出す。

 第10回を聴いた会員の希望で2005年1月22日には歌曲によるサロンコンサートが決まった。松堂久美恵・小倉貴久子という豪華キャストでシューベルト、ベルク、R.シュトラウス、林光、武満徹らの作品をコーヒー片手に楽しむのだ。
 奏楽塾の大演奏会はモーツァルト生誕250年の2006年。目下の態勢では、弦楽合奏とフォルテピアノに声楽くらいの編成でないといろいろと厳しいので、選曲に条件が加わるが、ハンディを克服するのも楽しみの内である。
 満を持して挙げた一曲は、J.S.バッハの次男C.Ph.E.バッハ作曲のシンフォニアWq182-5。モーツァルトの支援者でもあるウィーンの好楽貴族ヴァン・スヴィーテン男爵の依頼で1773年に作られた曲だ。映画「アマデウス」の冒頭で使われたモーツァルトの交響曲第25番と同じ年の作品である。学生時代、聴いた瞬間虜になり譜面だけ買ってあったのだ。楽譜の綴じ金がすっかり錆びるほど昔のことである。この度ようやく陽の目を見る。ただ試奏の時、楽譜を一目見た諸岡講師は、
 「本当にやるの?。激ムズ(過激に難しい)ですよ」
と、驚きの声を上げたので、どうなりますことか。
 ベートーヴェンの第9のテーマに似た節の出てくるモーツァルトのオッフェルトリウム「主のお憐みを」KV.222、リート的な教会様式の巧緻を極めた作品というグラドゥアーレ“Sancta Maria, Mater Dei”KV.273はいずれも6、7分の短い曲で、安田先生に相談したら編成も混声合唱と弦楽合奏、総譜もあるという。パート譜をつくる手間が必要だが、これはできそうだ。
 よろしかったら下野楽遊の演奏会にお出かけ下さい。歌でも器楽でもご一緒に演奏もいかがですか?。

 割をくっているかも知れない家族、そして今回このような文章を発表する機会を与えて下さった下都賀郡市医師会、医薬大同窓会の先生方に深謝して結びとする。(本稿は下都賀郡市医師会報用の文章に若干の改変を加えて医薬大版とした)