高田クリニックコラム
column
カルテ⑫ 昔を知るということ-200CDモーツァルト頌 1999 2月号 蔵の街クリニック 原稿
2020.11.30
1月27日はW.A.モーツァルトの誕生日だ。
惜しくも208年前、35歳の若さで世を去ったがその音楽は今も世界中の人々に愛好されている。
そればかりか「鍵盤を布で覆い隠した上からでも見事にクラヴィーアを弾きこなした」とか「ローマのシスティーナ礼拝堂門外不出の秘曲《ミゼレーレ》
(という名の多声部の無伴奏合唱曲)をその場で記憶し、後で正確に書き写して人々を驚嘆させた」とか下品な冗談も好きだった、とか生涯を彩る様々なエピソードまで今も人々の話題に上るのだ。
最近私は、モーツァルトを描いた楽しい本に出会った。
[蔵の街]音楽祭情報班員でもある安田和信氏ら、モーツァルトが好きでしょうがない5人の若手音楽学者が思いの丈を綴った200CDモーツァルトだ。
CDガイドには違いないが、「これが名盤だから買いなさい」といった提灯ガイドではなく、
なぜそのCDに価値があるのか、一つの曲に複数のCDを挙げてきちんとその理由が書いてある。その理由が面白い。
例えば、栃木の音楽祭の特徴である古楽器の演奏なら、どんな種類の楽器を使うつもりで創ったか、奏者何人で弾くことを考えて創ったか、など、音楽学の研究成果をもCD選びの視点にしているのだ。
音楽学の研究は、作曲者の指示のない奏者の数なども宮廷用とか、貴族の婚礼用といったその曲の背景から宮廷の家計簿を調べたり婚礼に参加した人の手紙の記述などを調べて当時の演奏の実際を割り出していくそうだ。
我々は、そうしたガイドに導かれ、モーツァルトの音楽の向こうに当時の演奏を取り巻く人々の生活や思いをも描くことができる。
これは楽しい。
屁理屈の好きな人は、「初演当時の再現にどれほどの意味があるのか」と言うかもしれない当たり前のことだが八百比丘尼ならぬ生身の人間は何百年も生きられはしない。
200年前は確かにそうだったなどと請け合うことなど誰にもできはしないのだ。
だが、現代に残された過去の断片から
ある時代の様子をうかがうとき、そこに見えてくる何かがある。
モーツァルト時代の楽器の音色や特性を頼りに現代とは違っていたであろう弾き方や、同時代の他の作品との違いなども考え合わせモーツァルトが、どのような新しい響きや音楽を創りだそうとしたかを探る試みは刺激的だ。
我々も知る音楽が、当時どんな風に響き、人々はそれをどう受けとめたか。
知っているはずのモーツァルトの「新しさ」「生々しさ」がそこに浮かび上がる。
トスカニーニ、クレンペラー、ワルター、ベーム、カラヤンといった一世を風靡した演奏家の、いわば現代から過去に光を当てた演奏とは違ったモーツァルト像が現れるはずだ。
それが古楽器を聴く楽しみだろう。
演奏家の視点の違いを無視して、往年の名演と新進の演奏の優劣を問う議論は知的怠慢だと私は思う。
どちらが好きか嫌いかはそれぞれの意義を認めた上での話だろう。
200CDモーツァルトは周到、公正だ。
第10回蔵の街音楽祭最終日。
オーケストラ・シンポシオンが古楽器でベートーヴェンの二つの交響曲とクラヴィーア協奏曲を演奏した。
聴衆は熱狂。客席に明かりがついても拍手はなり止まなかった。
古楽情報誌アントレは、音楽学の関根敏子先生が「斬新な挑戦」「国際レベルからみても高い水準」と評価、
その基盤となる楽譜の考証にも注目し、「音楽学研究と演奏実践の結びつきは、古楽の分野でもっとも必要とされているのではないか」との提言をも掲載した。
ところが「ひどい演奏」という人もいるのだ。
なぜかはわからない。
あるいは演奏困難な楽器の2、3のミスを責めているのだろうか。
とすれば気の毒なことに、ミスはわかったが演奏の意図や価値はわからなかったことになる。
ミスの有無が音楽演奏の至上の価値か、については、ある音楽ファン(彼が聴くコンサートの数は半端じゃありません。
ホームページに「古楽と癒しの館」を開設し自由に感想を述べている)の
「つまらないノーミスの演奏よりおもしろい八方破れの演奏の方が良いと思うので気にしない」
という意見を紹介して、読者の参考に供したい。
たしかに「シンポ」の演奏は、ベルリン・フィルやNHK交響楽団など現代仕様のベートーヴェンに慣れた人には違和感があったようだ。
栃木読売1998年10月24日の「窓辺」氏は
「音楽祭の特徴の古楽器によるオーケストラが聴き慣れたものとはずいぶん違う演奏をした」と書く。だが、氏は「はじめの違和感は『これが古楽器なんだ』と納得した途端かけがえのない演奏に出合った喜びに変わった」と古楽器オーケストラ体験を世界観の深化に昇華させた。
昔を知って、今と違っていたら、昔が悪いのか。
おめでたい進化信仰に出会いの喜びはあるまい。
時代を越えた生き様の出会い、その触感が歴史認識に違いない。
そこに知恵もひそむのだ。
200CDモーツァルトを読みながら、そんなことを考えた。
モーツァルトが何を考え、どう生きたか、当時の社会情勢や人間関係にまで踏み込んでいきいきと描く5氏の筆にはモーツァルトの体温を感じさせる熱さがある。
また、「ほぼ同音型の連なりだけでアップテンポで音楽が進む中ケルビーノが奥方のことを言及する時だけ短調にするという心遣い」
(フィガロの結婚の項)などの記述は、「中心に頭脳のある音楽」(H.C.ロビンス・ランドン:「モーツァルト」中公新書)の「楽しみ方」をも示してくれる。
「200CDモーツァルト」立風書房刊。本体1,800-。
どこの本屋さんでも取り寄せてくれるはずだ。
都心の大きな書店なら店頭にあるかも知れない。
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